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『十二夜』

 

「…しかしこの芝居は風俗喜劇ではない。詩的喜劇なのだ。上演において我々が為すべきことは、現実の劇画化ではなく、幻想的世界を創り出すことである。」ヒュー・ハント

 

「…この芝居は心地よさと陽気な気分に溢れている… 風刺は殆ど無いし悪意などは全く見当たらない…観客は人間の過ちを笑いこそすれ、軽蔑もしなければ、勿論、悪意を抱くこともない…」

 

「…シェイクスピアの喜劇的天才は蜜蜂に似ている。この蜜蜂は毒針を後に残すことよりは、雑草や毒草から甘い蜜を吸い取ることに巧みなのだ。シェイクスピアは登場人物の大きな欠点を誇張して、我々を大いに楽しませてくれる。のみならず、登場人物自身、怒るどころか喜んでその役を買って出ていると思われるくらいである。シェイクスピアは、彼らにみづからを至福の光の中に照らし出す機会を与へている程で、彼らを他人の機知や悪意といった曲解から起る軽蔑の晒しものにはしていない…」

 

「…彼が地口とか下賤の輩の一風変つたをかしさに惹かれても、それが美しいもの、即ち最も洗練された愛を描く喜びの邪魔になることはない。つまり道化フェスティの無理強いの洒落もヴィオラの優しい性格を損ふことはないのである。そして同じ一つ家がマルヴォーリョー、オリヴィア、マリーア、トービー、そしてアンドルーを十分受け容れることが出来るのだ。」ハズリット

 

十二夜福田恒存シェイクスピア全集 補巻 新潮社版 付録の批評集より抜粋

 

巻末に付された幾つかの批評を見る限りでも、「…現代のシェイクスピア劇上演にありがちな、登場人物に対する解釈過剰の傾向…」とでも呼ぶべき、全ての仮装を剥ぎ取らんとする勢力と、登場人物たちに仮装を纏わせる作者の力量に感嘆している勢力とに、批評の方向が二分しているのが興味深い。とはいえそうした両勢力を、まさしく双方向的に宿しているのが他でもない『十二夜』という作品なのであって、ここでは衣服は、剥がされるより先に着せられているのである。

 

なお抜粋した批評の断片はどちらかといえば後者の勢力にあると思われるものばかりであるが、これは専ら私の選択である。特に蜜蜂の比喩によって描写するシェイクスピアの喜劇的天才、などというのは、余剰を付け加えるばかりで奪うことをしない言葉の喜劇的用法であって、対象の一面に投げかけられた新鮮な光線の齎す錯覚を、これこそ「豊かさ」である、とすることに躊躇いを感じる程の余裕は、最早私には無い。

 

 

 

 

 

冬の日

 

冬至というのは一つの契機である。その日を境に少しずつ日が長くなってゆく、というのは科学だが、縁起物にもやはりそこには科学があって、御守りを冬至祭より配り始めるというのが穴八幡宮の恒例らしい。通りから見える景色も、登ってゆく石段の辺りに家族の賑わいを見せている。しかしその横で、私の入ろうという喫茶店は無理の気配を漂わせていた。

 

この店には愛着がある。近くに生まれ育った同郷の存在に抱くものに似た、であるからこのような、混雑に見舞われ誰の手によらず制御を失って回転しているところを見ると、不安ばかりが募っていく。このままでは今に壊れてしまう。しかし午後の空は変わらず明るさを保っている。

 

そうこうしているうちに、見えないところで陶器の割れる音が聞こえた。この店ではおよそ初めて聞く音である。左斜め後方で落ちた珈琲は、客の一人をかすめたようだ。謝罪の声が起こり、店内は騒然とした。女性客のコートが持ち去られ、「ああそれが。」と思っていると、後ろで歩調を荒げた女性が席を立ち、店員に詰め寄り話を始めた。

 

暫くして彼女は店を出て行き、その後どこかからもう一度、店に電話をかけてきたようである。不運に見舞われた女性店員は行き場のない辛さをたたえている。

 

「誰だって失敗をするんだから、仕方ないじゃないかね。」「悲しい顔になってしまった。」「もしあれが高級品だったとして、すぐ買い換えることのできるくらいでなきゃ貧しくっていけない。」

私と先から相席していた男子学生三人組みの批評は高級である。

 

私はといえば歩み去った彼女のことを考えていた。彼女は一人きりであった。一体こういう時に、全ての孤独は露呈するのである。彼女の怒りは、不運な女性店員へと向けられたものばかりでは決してない。それは重力のように、この店と、コートの先へと引き続く彼女の人生とに、静かな降り積もる時間の堆積を見上げる、噴出せざるを得ない悲しみである。

 

私の机には更に男子学生が二人相席することになったが、この二人が体育会系の体をしていたので、テーブルは動揺した。私たちは四角いテーブルを囲んで腰を浮かし、ゆっくりと回転した。彼らの言うにはここのバナナジュースは格別であるとのことだ。私の珈琲はバナナジュースより遅れてしまってまだ出てこない。しかしもう、ここまで来て何ひとつ動揺を感じることのない自らの心が、私には面白く思えてきている。

 

「珈琲遅くなり、大変失礼致しました。」

私が会計を済ませている横に、別の女性店員がやってきてそう告げた。会計をしているのは珈琲転落の彼女である。「いえ大変でしたね。」と私は立ち去ろうとしたが、お釣りを受け取り目を上げると思わぬ瞳にぶつかりよろけた。

 

具体を持たない、ただ自由を求めるような、熱量に満ちた目である。その眼はもう私を見てはいなかった。その煌きは、この瞬間に起こったものではなかった。一体どこからどういう光線が刺しやってきてこの瞳を奥から照らすのだろう。全ての同情をすら撥ね付けるほどに鈍く沸騰へと向かう目である。私は殆ど彼女のことを見上げていた。

 

彼女とももう幾度となくやり取りを交わしてきた筈であったが、これ程までに彼女が抜き差しならぬひとりの時間を露わにしたことはかつてなかったはずだ。私はとにかく何かを差し出そうと辺りを見回したが、店内の混雑を思い出すばかりで何ひとつそれはやってこない。私は店の階段を下りた。

 

それにしても私達は一体何をこうして準備しているのだろう。何か気乗りのしない革命へと向かっていくような静けさ。直進してみせようとも実は回転しているに過ぎない悲劇と、明日は今日より日が長くなるという喜劇。しかし私はあの目を思い出す。あの眼の光を。コスメティックの持つ輝きとは明らかに別物の何か。欲望によって他を動かし続ける力とはまた異なった、その美しさを宿した冬至の風景は、果たして私をどちらへ向けるだろうか。

 

それ以来というもの、彼女と顔を合わせるたび、妙な感覚に襲われる。もう私には、彼女の微笑みがわからない。

 

 

 

 

 

 

共に過ごしていた時間、そして今のこの、過ごしていない時間。私はどうすべきであっただろうか。

 

この程度の感情から、何者かに対する永久に終わりの来ない贖罪の日々が始まるというのは、何も珍しいことではない。

 

かと言ってこの状態のままならないのは、そもそも我々に成し得ることというのが、「共に居ること」の方に限られているということ。

 

別れが訪れた以上、あらゆる謝罪など意味をなさないのであり、更には「私、悲しくなんかないわ。」と目の前でその人が口にするのなら、それはもう、ある生の有り様は、その人が肯定しそれを続けている限り誰にも同情することなど許されないという認識でもって、贖罪とは、日増しに孤独な祈りの形をとってゆくのである。

 

自らに対してですらそれほどに、事は複雑なのであり、ましてや他者が別の他者と関わるあり方に対して是非を云々する、というのは、立脚可能な足場が余りに不確かで、何らか突発的な感情の噴出に吹きまくられない限り、行うことは躊躇われる。

 

しかしそうした突発的な感情の噴出というのも得てして他者を前に躊躇われるので、怒りとは、これも殆どが独り言である。であるから怒りと祈りとを垣間見るとき、我々はその他者のうちに時間を見出すのである。

 

「君は人を見ればその人間が他人の前で自分の苦しみを表に出してみせることが出来る者かどうかくらいはわかるはずだ。」

 

そうした時間の表出は、すぐさま一人の人間を不明な怪物に近付ける。不味くしか語り得ない人間というのがいる。彼が語るのは、正に今、彼が囚われている問題である。であるから彼の話法は精神の動線をなぞり、即ちその不明とは、精神の働きの不明さそのものであると言える。

 

上手く語るためには、話法のために、内容を理解し自らのものとせねばならない。どの程度を口にし、どの程度を閉じ込めておくかという判断は人によって異なるけれどもいずれにしろ、話法が敗北している告白というのは、結局のところ、描写には収まり得ない。

 

言葉がその限界を示し、その裏に潜む朧げな実態の方へ、聴き手の探求を向かわせざるを得ないので、結果的に聴き手は、語り手の直面したのとはまた異なる、再び生み出された新なる不幸と遭遇する。即ち聴き手はまず、語り手の精神の動きを探る必要に迫られるのであり、従って結果的に世界に不幸は倍増する。

 

口にしないでいるということは、その現存を自らのうちにおいて食い止め、他者のうちに悲しみを注ぎ込むことをしないという、人間の想像力に対する信頼から導かれたひとつの姿勢でもありえる。元来幸福も不幸も損得で測るべきものでは無い。

 

ところで、そうなってくると殆ど苦しみは、人を豊かに、美しくしてゆくばかりになり始める。するとむしろ私は進んで当事者から、怒りか、或いは祈りの声を聞きたいと、思う時がある。彼らからそれを注ぎ込まれるのも、彼らが自分に比べてそのように美しいのであってみれば最早苦痛とはならず、俄かにそれは愛に近づく。

 

しかしやはり当事者は、誰一人声を発さぬではないか。これは慎みからなのか、或いは諦めからなのか。私にはわからないが、しかしそれは痩せ我慢などでは決してなく、そうすることでせめてなりと、二人の人間を、二人が存在するその世界においてでき得る限り美しく、捉えておきたいと思うのである。

 

それは或いは、「共に居ること」そこで起こる愛をこそ信じ、それに反して、望むと望まざるとに関わらず孤独のうちに自己増殖を続けてゆく怒りと祈りとで、何かを裁くことなど絶対に認めはせぬという、果てしのない自己嫌悪の決意にも繋がっている。

 

 

 そして全てを経てなお、避けられぬのは死である。悲しむべきは何より死である。それ以外には何もない。

 

 

 

 

 

BFG

 
ロアルド・ダールを前にすると、常に狂人ギリギリのラインでせめぎ合う自分を感じる。BFGがそこにいることを確信してバルコニーから飛び降りるルビー・バーンヒルの方へと接近するのならそれだけ、あらゆるカットの間隙を、恐怖がその姿を隠しながら走り廻るのが見え始める。
 
子供から尋ねること無しには存在することのなかった世界であり、同時に子供から尋ねられることによりその要求に応じてその都度不断に全体を新たにしていく世界である。この奇妙な感覚は、見ることと存在することとの間に横たわる得体の知れない不通線を前に、感じる戸惑いと似ている。
見知らぬ島へ父とやってきたぼのぼのが抱く「この島は夜も同じようにこうしているのだろうか」という問い、或いは寝たふりをしながらうすく目を開け父を見ていたら、自分が眠ったあとの世界で、父が突如として寂しげに見え始め、いつの間にか悲しみが、途方もない勢いで膨らみ始めるぼのぼののあの感じ方は、ちょうどロアルド・ダールとは反対の方向から互いにその振り幅を狭めながら、ついには同じ一点へと限りなく接近する。
 
そうなった時に、スピルバーグに課された仕事というのは、不眠症の少女を現実と夢の間から呼び出すということになってくるわけで、その点ルビー・バーンヒルには絶対の支持を送りたい。これは好みの問題である。
彼女を前に、スピルバーグは幸福と恐れを感じているのではないかと思う。ぼのぼのがどのようにして終わりを迎えるかという問題は間違いなくあって、BFGが少女と巨人の乱暴なカットの繋ぎで幕を閉じるように、それは自ら進んで幸福な顔を浮かべながら、ボケたふりをした老人のように平気でのっぴきならないところへと向かっていくに違いない。
 
 

夢を売ること


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”TIN MEN”    (1987)  / 『ティンメン/事の起こりはキャデラック』



THE AMERICAN DREAM CHANGES
THE PEOPLE WHO SELL IT DON'T

映画の立つのはそうした中間である。

文明の有り方は精神と知性によって止まることなく絶えず発展しているので、ひとつの夢の形はそれが仮に実現したとしてそこで止まることはせず、であるからひとつのモードは決して永続し得ないのであるが、しかしその認識によって郷愁とニヒリズムとに陥るのではなく寧ろその事実によって、夢それ自身は軽やかさを得ることができる。それを可能にするのは他でもない役者であり、或いは動線としての演出である。

リチャード・ドレフュスらセールスマンは、顧客との間を媒介し、新たなモードをアメリカン・ドリームとして購入させることに成功していく。

彼らは顧客と対面するたび、商売的金銭的意味に於いて、彼らを騙していると言ってよい。しかしだからといってそこに加害者被害者といった構図は生まれない。というのもそこには真に夢があったからなのだが、ただしそれは彼らの売る商品によって齎されたものではなく、むしろドレフュスの発する言葉、それを発する彼の身振り、そしてそれらで満たされた時の流れの方から来ている。ドレフュスの対面に位置した人間は、そうした豊かさを目の当たりにするうちに、あたかも賭け事において中心に置かれた金銭がその切実さを失い羽を生やし飛んでゆくように、自らの金銭に突如として軽やかさが宿り始めたのを感じ、そしてそれを投じるのである。

であるから或いはドレフュスとダニー・デヴィートが、自動車をぶつけたぶつけられたで殴り合いの喧嘩を始め、そしてそれぞれに消化不良の鬱憤が残されるとしても、それは同様に一種のスポーツである。

そこに存在する諍いへの原動力は、絶望でもなければニヒリズムでもなく、専ら戯れへと向かう欲求である。車は度重なる嫌がらせを受け、一方はテールランプを割られ、一方は全てのウインドウを叩き割られ、常に互いの復讐の対象として傷を負ったまま彼らを運び続けるのだが、しかし傷を負えば負うほどに、自動車も金銭と同様何処までも軽くなり、それを壊す術も、殆どコウモリ傘による決闘と同じ次元で、互いの紳士協定を保証し続ける。常に急所は見誤られ、唯一重さを持って暗闇から現れる拳銃も、すぐさま生卵へとすり替えられる。

リチャード・ドレフュスは、このスポーツに於ける試合巧者である。しかし彼に負け続けるダニー・デヴィートとの対面が、決定的にのっぴきならぬものにはならず、むしろあのように朗らかに終わることが可能であるのは、そこにスポーツマンシップがあるからである。間に横たわるこの美しい精神こそが二人の闘いを戯れへと変え、或いはセールスマンと顧客とのやり取りを、金銭の損得とは異なる次元へと運んでゆくのだ。誰ひとり勝つ為に闘うのではない。対面の人間を信じられなくなれば終いである。

そうでなければ「お前の妻は俺のもの。」「いや絶対に別れてなどやらない」などという会話が、当の妻抜きで為されるというのも、その妻の命運がビリヤードに懸けられるなどということも、本来あってはならないのだから。
繰り返される彼らの対面は少しずつ緊張度を増し、遊びが遊びでなくなるギリギリのラインは、妻を巡るビリヤードの試合に於いていよいよ現実的ではなくなる。
交わされた賭けの約束は、肝心の試合中継を経ることなく直接翌朝の朝食へと接続される。その唐突な緩慢さによってもたらされる不安と奇妙な笑いは、しかしその試合結果を飄々と無視してみせるリチャード・ドレフュスの後ろ姿によって不可解な安定を獲得する。
朝食を食べ終え、「確かにビリヤードに負けたからには、僕は君を失わねばならない。しかしそんな約束を守るほど、僕は善い人間ではない」などと言い放ち颯爽と出掛けてゆくリチャード・ドレフュス。その後ろ姿が可能であるのは、ドレフュスがビリヤードではなく、その背後にある、より大きなスポーツのルールの存在に則って、ビリヤードでの敗北を敗北以外の何物かに変えてしまったからであって、それはジャン・ルノワール『イヴトーの王様』を締めくくるあの笑い、或いはジョコヴィッチに敗れたロジャー・フェデラーのテニスが成し遂げたことと同じ次元で、美しく、かつ説明不可能な出来事である。

結局の所ここには、絶対にスポーツマンであり続けるやり方、そのための身体、顔、声を持つ役者という存在と、そのことを理解し、次々と危険な遊びを考えつく演出という存在があり、そのどちらかひとつでも失われれば、途端に戯れは勝ち敗けを志向し、あらゆる物質は夢の軽やかさを失い、人間は、計り知れない互いの中心へと向かって闇雲に照準を定め合う戦争へと歩み始める。そうなればもう試合のルールにはただただ公平さばかりが求められるので、そこに戯れはあり得ず、そして創造も失われる。より強い勝者の生産と、より弱い敗者の救済が望まれ、それは結果として新たなものをひとつもこちらに返すことはなく、寧ろそうした映画は、誕生と引き換えにその都度確実に人を殺し奪い去っていくような、恐ろしいものとならざるを得ない。

「アメリカン・ドリームが変わる」ことが問題なのではない。しかしもし、それと共に夢を売る人間までもが変わってしまうのならば、それは映画にとっては、売る人間の存在と同時に映画そのものが不可能となることを意味する。

こうなった時、映画を巡って生み出される言説の多くは、最早映画を軽くはし得ない。言葉を探して個々の商品を「良い」と真摯に説明する作業は、顧客の金銭を軽くし、まだ見ぬ夢としての映画へとそれを賭けさせることには繋がらない。ドレフュスのように、自ら触媒となり、顧客と一対一のスポーツを演じることでその背後を夢見させること。それは売り込む商品の良し悪しの問題以前に、人間同士のやり取りの問題なのであって、そうして真剣に行われた試合のその先に待つのは大なり小なりの友情であり、決して損得勘定では有り得ない。セールスマン達は、映画が終わる頃には詐欺罪に問われ裁判でライセンスを剥奪されるわけだが、しかし彼らを訴えたのは顧客達ではない。果たして彼らはセールスマンを恨むだろうか?リチャード・ドレフュスとダニー・デヴィートは、自動車を破壊し合ったライバルであったにも関わらず、二人してどのように映画から退場していったであろうか?

映画を軽くする言説が可能であれば、映画そのものも可能である。映画の存在は、良し悪しの問題とは別に、スポーツ観戦の楽しみに近いものを保持する。これは何もそうした映画が全て良い映画であるなどと言うことではなくて、むしろそうした姿勢があって初めて、良い映画と悪い映画という考え方が可能となるのである。この区別は上下関係とはならず、あくまで個々の試合の記録として、それぞれが歴史に名を残してゆくことを意味する。その上で多様性は歓迎され、時にルール違反ギリギリのことを試みる存在が現れる。しかし彼もスポーツマンであるなら、それは独特の進化を遂げたひとつのプレイスタイルに他ならないであろうから、その出現によってむしろ競技の概念のほうに新たな拡がりが齎され、そうしてスタンダードは新たに移り変わってゆくのである。

この姿勢を維持し得る限り、失敗は失敗とはならない。ダニー・デヴィートを、或いはニコラス・ケイジを見よ。笑いと共に始め、そしてその高揚は気付かぬ間に幸福として有り、その連続の堆積によって自然に涙へ繋がるような、そういった時間の存在を、我々は知らぬわけではあるまい。




有村架純と『ビリギャル』


   何にも縛られずのびのびと育った有村架純は自然にビリギャルとなる。

   彼女が禁止或いは命令或いは社会の圧力との遭遇を強いられるところから映画は始まるのだが、しかし彼女はそれらとの間に戦線を張り抗戦をする道を選ぶのではなくむしろその内部へと飛び込み、自らを媒介としあらゆる硬直した概念に変化を与え、ついにはそのものと一緒になってこちらを魅了してしまう。
    
   プロローグ的に語られる荒唐無稽な彼女の幼少期において、母親は些か乱暴にも見えるやり方で、娘の環境を整える。そこにある教育方針とは娘の生きたい様に生きさせてやるというものであるので、娘の前に障害の影が少しでも現れようかというその刹那には、母親は駆けつけ、障害から娘を逸らす。そこに批評は働いていない。人間を構成する絶対と相対の微妙な混じり合いのうち、母親の方針における全比重は絶対の方にある。結果として娘の相対的位置が「学年ビリのギャル」となるのも、母親にとってさして問題ではなく、娘の絶対を信じて彼女はその方針を実行に移す。

   その結果として娘の絶対は、あらゆる反動的精神と無縁に育つことになる。このことは彼女の在り方において重要である。彼女は世界に広がるあらゆる具体を、出会ったままに受け止める。であるから彼女が成長し髪を染め、スカートを短くするに至ったのも、目の前にあったものをカワイイと彼女が思ったためにそうしているのであって、或いは彼女が全く勉強をしてこなかったというのも、単にそれをせずともやっていける状況(エスカレーター式の私立校)に彼女がおり、その上でそちらを選んだまでである。そしてそれら要素は彼女を「ビリギャル」と一旦規定するわけであるが、しかし彼女はその位置から殆ど自由である。彼女は「ビリギャル」であることに何物も負ってはいないし、殆どそこに縛られてはいない。彼女はその肯定の都度、不断に変化し続けうるのであり、変化を拒んでいるのは寧ろ彼女の目の前にある社会の方なのである。
    
   そんな彼女であるから、塾に初めて現れた際、そのへそを出したルックを下から上へとカメラが舐めるように映し出したとき、『え、つかガン見しすぎじゃね』と単純にツッコミ返すことでその視線の交換を対等なものにしてしまう。或いはテストでミスをし、塾生の前でそれが露わになったとしても、生徒の間に起こる笑いは、「すげえウケてる」と笑ってそのまま彼女の魅力となる。この時点で彼女は稀有な単独者であって、半ば聖人の域に達している。しかし逆に言えば少し浮世離れしてもおり、その魅力は絶対的であり相対的評価を待たないがゆえに、遠くへ広まってゆく力をあまりまだ持たない。彼女は彼女としてこれで充足しているとも言えるのだが、しかし彼女に与えられた「ビリギャル」という位置が、社会においてことごとく彼女への絶対評価を妨げており、社会の方でも彼女を不良と認識し放っておきはしない。

   社会はまず大学進学という一つの具体へ繋がるものとして勉学の必要性を迫る。ここで事を複雑にするのは塾講師の存在で、彼によって目標が「けーおー」に設定される。このことがプロットにある種のスポ根的性質を与えているのだけれども、しかしここで見逃せないのは、この塾講師の存在によって、彼女にとっての勉学というものが、「やってもよいもの」の方へとスムーズに位置付けされることである。結果として彼女は、「やらなければならぬ」と言われたがために、それに対して「やるか不良か」という姿勢をとりかねない勉学というものに、及びそれを通じてその先に垣間見える社会という存在に対して、ついに反動的精神を持つことなく、それを「やってもよいもの」として受け入れている。つまりビリからけーおーへの変遷においても、彼女は未だ何物も負ってはいない。この変化は余りになだらかに起こるので、例えば友人とカラオケに行き歌を歌うと同時に宿題をこなすといった両立を可能にする。この様を日々目の当たりにすることになる友人たちにとってはこの変遷はあまり自然でないので、彼女を勉学に集中させるため一旦遊びの方を中断する話が温泉の湯の中で出るのは相対的に見て自然なのだけれども、彼女にとってそれは最初驚きでしかない。であるから「私のこと嫌いになった?」という反応が出るわけで、その後会話を続けるうちに不意に彼女を涙が襲うのは、彼女の内で絶対と相対がひとつ独特な形で融合を始めつつあることを予感させる。
   
   続けて彼女に迫り来るのは勉学を経た先にある大学受験そのものであり、即ちそれは与えられる相対的な評価と向き合うことである。有村架純センター試験という名の社会存在に直面する。会場での彼女の不安げな視線は、人称不明の後頭部へと注がれ、それはそのまま振り返る彼女でしかない。初めて視線はバランスを失う。

   彼女にとってのテストというものは、未だ殆ど相対評価としては存在していなかった。学校でも塾でもそこで良い点数を取ろうと悪い点数を取ろうと、塾講師や母親や友人たちは、彼女を絶対的なやり方で評価し続ける。しかしそうした対面とは全く性質の異なる、得体の知れない大きな存在との対峙は、彼女のバランスを不可能にする。そして数字はどこからか唐突に郵送され、彼女は挫折すると同時に、反省する。

   通塾のために母親の支払った月謝の金額のことを思い、そのために母親の重ねる労働の時間を前に、夜の雨の中声をあげ泣く。塾講師が担任と対峙する場面に出くわし、担任の振りかざす偏差値、確率といった数字が塾講師を襲う中、彼が一つの絶対を切り返してみせるその勢力を彼女は見る。相対的な成功へ固執する父親とその夢に挫折した息子を巡る殴り合いを前にし、おもむろに立ち上がり、父権の象徴とも言えるバスの窓ガラスを潔く叩き割る母親とともに、彼女は神の位置を定める。絶対と相対が混じり合い、一つの道徳となる。彼女のルックは変わる。そして彼女は全てを肯定し、透明になる。 

   スポ根ものとして、彼女は勝負に勝つわけであるが、そのことは重要でない。ビリからけーおーへの変遷は、プロットにおいて半ば約束されていた。ではギャルから透明への変遷はどうであろう?一体ここで彼女は、何を肯定するに至っているのだろうか。

   この映画は、魅了することで勝敗を異化する。勝負に負けた存在として有村架純に並置された野村周平の存在や、或いは勝負に負けたことでパンツ一丁となる担任、勝負に負けた父と息子の存在。しかし彼らは皆最後には透明で、なんだか大丈夫なのである。それは単独者たる有村架純が勝ち負けのルールを変えてしまったからであると言えるのだが、しかしそれは同時にこの映画が私を感化したためであるとも言える。『ビリギャル』という題とは裏腹に、彼女は一度もビリではなかったしギャルでもなかった。この映画も、一度として『ビリギャル』では無かった。それらは与えられた装いでしかない。そのルックはそうした一固有の具体を超えその先を思考していた。一歩間違えば勝ち負けを巡る好奇の目を集めかねない主題でありながら、そうして集まる視線を常に少しずつその向こうへと送り、むしろそちらへと招き続けた有村架純を、包むそのヴィジョンは魅力的である。

    『ちはやふる』『バグマン』といった、高校生が中心となる日本映画は『ビリギャル』の他にもあるけれども、それらは高校生の生の具体を描くということをどこか躊躇していた。実際前者からは競技かるたを巡る以外の彼ら彼女らの日常的時間がごっそりと抜け落ち、同級生との帰宅は描かれるにも関わらず、その先にあるべき広瀬すずの家は描かれず、家庭の様子は一度も画面に表れない。後者に至っては、物語上都合の良い親戚としての宮藤官九郎はあれだけ描かれるにも関わらず、他の家族や家庭の存在は全く現れない。小松菜奈は全て佐藤健と関わる以外の時間において全く画面に表れないがため真に生きていないも同然となり、表れる時には常に玄人の姿勢を維持して、そこには何の持続も見られない。

    個々の具体的事象を貫く一つの連続した持続を思考することなく、それぞれの勝負を切り離し、一々の勝敗によって何か意味を現そうなどと考えていると、人間に無理が生じる。有村架純のルックが変わり、彼女が役者としてどんどん透明になってゆくのは、「せねばならない」と「してもよい」の中間の肯定を作家が信じ、そこへと有村架純自身が役者として到達することによる。そうした人間と役者への信頼が、『バクマン』には決定的に欠けている。

    小松菜奈にひたすら愛している/愛していないを言わせ続けることしかし得ぬ『バクマン』。私はこれをみて小松菜奈が嫌いになってしまった。配られたプリントを回そうと振り返るとそこに澄ました顔の小松菜奈がいる。階段で見かける彼女も体育着姿の彼女も、街中の広告で見かける彼女とさして変わらずモデル的姿勢を完璧に維持し得ている。彼女は勝ち続けている。そのこと自体に問題があるというよりも、そのことに全てが懸かっているかのような姿勢が問題なのである。これは使われ方の問題であって彼女自身の問題ではないものの…  しかしそんな悲しみも、有村架純のことを思うと途端に呑気の気分と共に春の陽気が訪れ消えてなくなる。   ぼのぼのの単行本の帯に、有村架純の写真とコメントが載っていたことがあった。それはぼのぼの39巻でのことで、そこではスナドリネコさんは少しボケてしまうのだった。スナドリネコさんは少しボケて、クズリのオヤジもボケる。そしてぼのぼのは春を見に行く。




四つの夏

  

 

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 A.C by Adrian Tomine

 

    持ったニュアンスがどこか皆似ているのは、16mmフィルムの質感であるとして理解は出来るかもしれない。或いは風景も、やはり共通の、土地独特の色を持っている。にも関わらず蝉の声の聞こえるのがそのうちにひとつしか無く、しかもそのひとつというのが、冷房の効いたさむい室内を意識していたというのは、私の気になる所である。
 
     冷房の効いた部屋とともにやってくる夏というのを、欲しいままに味わい尽くすようになったのは、実家を出てからであるように思う。実家を出てから、というのは私にとって東京での生活を意味する。私が実家を出たのは大学二年生の春で、その頃にはもうチルウェイヴはすぐそこまで来ている。
 
    東京以前と東京以後というのは、間違いなく、ある。私が幼い頃読んでいたいくつかの絵本のことを思うと尚更。私の記憶では、絵本作家の少年たちは何故か肌を黒や茶色に塗られて、泳ぐ魚と一緒に水に飛び込んだり、妙な姿勢で速く動き回ったりしていた。私だって夏には肌を焼き、負けじと水に飛び込んだり、速く動き回ったりした。
 
   夏の熱気にさらされたカメラを持つ子供の運動、夕暮れに吹く風を汗に濡れた肌が受けとめた時起こる清涼の実感を与えるひとつめの夏は、私にとって絵本の夏、故郷の夏だ。階段の手すりの石の部分に体ごと跨りその冷たさを享受するという経験は、ついに私には訪れなかった。しかし私はそれを縁側の冷たさと較べる。その冷たさを、体温はすぐ奪ってしまうことを私は知っている。或いは工事の音は確かにこう鳴っているはずだし、夏の光、そこここに目に見える風は、今も昔もきっとこうなのだと思う。
 
   そこで四つめの夏だが、蝉の音が鳴りつつも、ここには不思議に暑さが無い。それは他でもない、神社は木陰に涼しく、室内には冷房の効いているからだが、それは終盤交わされる冷房そのものに関するやり取りによって明らかになるものというよりは、閉め切った窓によって、はじまりから無意識のうちに空気を調節していくものであるように思う。或いは服装にしても、ふたつめのように太腿があらわになっていたり、みっつめのように薄着のオフィスシャツが少し乱れていたりといった、女性のある種プリミティブな姿はそこには無く、どこか涼しげな、エアー・コンディショニングの感覚が、やはりそこにある。
 
   こういう色々な夏というのはどれが良いどれが悪いというものではなく、どれも夏なのだろう。これは感覚の話である。
 
   私はここ数年冬が来るたびに、「この冬はどうやっても明けない」 としか考えられない。その感覚がひとたび訪れると、来るべき春や、かつて間違いなくあったはずの春をも忘れ去って妙に鬱々としてきて、その反動かはわからないが、人知れず地球に接近し続ける隕石の存在の夢想を始め祈るように安定する。
 
    この話を会うたび友人にしてみると、全く私にはその感覚はわからない、と返されることもあれば、或いは冬が明けない云々の所まではなんとなく私にもわかるが、隕石のこととなると、私にもさっぱりわからないと言う人もいたりする。
 
    隕石の想像が、ここ数年の冬が持つ不思議な感覚を言い表すのに余りに不適切であることを知るたびに、私は悲しい。私はまだ東京の冬を掴みそこねているのだろう。しかしこの四つ目の夏を、東京の夏と名付けたくなる欲求は、少しある。神社と家とがドアトゥドアで繋がってしまうのも、私にはそれが東京の夏らしく思える。急転直下で退屈を感じ始める女性に、私は東京を感じる。これは感覚の話である。
 
 
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2016.3.12
 
みんなで映画のつくり方を学ぶために友だちに書き送る手紙 vol.1 
 
『どうでもいいけど』/ 佐々木 健太
『感光以前』/ 竹内里紗
『帰れないふたり』/ 竹林 宏之
『しじゅうご円』/ 清原 惟