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『インヒアレント・ヴァイス』PTA



   この映画に罪があるとすればそれは、この映画が観客を笑わせてしまっていた、というただその一点に尽きる。

   私立探偵を名乗るホアキン・フェニックスがどれだけ調査を進めようとも、切り返し、高低差、望遠広角、そういった積み重なりによって推し量られるはずの中心が存在しない(あるいは相容れないいくつもの中心が存在する)ということはさしてわたしを不快にはさせない。
 
    しかし観客である。猥褻な言葉・要素が出てくるたびに声をあげて笑ったり、少しでも気の利いたセリフを誰かが言おう(もしくは言い損なおう)ものなら、すかさず笑い声をあげたり、あの笑い屋たちはいったい何者なのであろう。もし笑いというものが、ベルクソン言うところの社会に対する軽微な「修正」のための方法であるとするならば、そして彼ら笑い屋が、そうした用法で笑いを用いていると仮定するならば、彼らは最も手の出しやすい修正のためにわざわざ声をあげて笑っているに過ぎない、ということが言えるように思う。つまりそれは最も常識的な中心を自らのうちに備えておれば可能な修正ということであり、最も容易に映画の上に立つための方法であり、それはこの映画がR15+に指定されていることと同程度の常識的な権威の押し付けでしかない。

    そのような安易な修正によって、映画には撮られていないはずのある種の中心の存在を常に意識する羽目となり、「ああまさしくこうして世界に中心はひとつではありえないのだ」などと思ってしまう私も単なるひとつの中心であり、中心をはずれた口を持つホアキン・フェニックスが実は最も中心を渇望しているのでは無いかというような、そのように思わせる彼の、声にならない叫びのようなものを聞いたように思う私はやっぱり単なるひとつの中心でしかない。
余談だが横光利一『機械』は素晴らしい。

『やさしい女』ロベール・ブレッソン

 
 ドアノブを握って開かれたドアが、落ちて割れる植木鉢が、急ブレーキをかける車の音が、唐突にあらわれる。上から舞い落ちる白い布だけは、まるで幻でもあるかのように、ゆっくりと宙を漂っている。
 
 女優はこの冒頭の数カットにおいてのみ唯一殺人から自由になる。路上にうつ伏せに横たわり頭から血を流す女性の姿を見て、白い布を纏った人間が階上から落ちたのだろう、というような認識がひとまず生まれるわけだが、しかしだとしても、我々はまだ彼女の存在を全く認知しておらず、ゆえにここで我々が遭遇したかもしれない死とは、極めて無機質な、つまり決して殺人などと読まれるようなものではなく、ましてや悲しみなど感じるはずもなく、あくまで「死」としてしか認識しようのない、動かない彼女の身体である。
 
 ブレッソンは怒っている。どこまでも目の前の映像の表面を滑り続けていく男の語りの声は、我々に視ることを困難にする。男の回想によって語られる映像のほぼ全編において、ドミニク・サンダは決してやさしいわけでも穏やかなわけでもなく、むしろ全ての瞬間において、認識という言葉の手から逃れようとじっと静かに身を硬直させているようにみえる。その硬直は自然に死体の硬直へと繋がり、棺桶を閉じる釘の音の無機質さへと繋がる。
 
 この映画において、殺人はあらかじめなされている。ひとつにはそれは、路上で、部屋のベットで、そして最後は棺桶の中で横たわっていた、ドミニク・サンダの身体の硬直によって示される殺人であり、そしてもうひとつは、男によって回想されるドミニク・サンダの、その全編に渡って緩むことのない、認識を拒むあの硬直の身振りによって示される殺人である。映画はその2つの殺人の間を行き来する。そしてどちらのドミニク・サンダも、一度も真に耳で聞かれることはない。棺桶の中に横たわるドミニク・サンダの頭を抱えて、「眼をあけてくれ」と声を発する男は最後までそこを取り違えている。本当にここで必要なのは、二階から一階へ聞こえてきた彼女の歌声(観客にそれが聞こえてくることはない)が、棺桶の中から再び漏れ聞こえてくることである。
 
 この映画を前にして、何か得体の知れない怒りのようなものの存在を感じるのは、『やさしい女』として認識されていたはずのドミニク・サンダが、瞬間瞬間において気付かぬうちにこちらへ向けて放っていた抵抗の気配のせいなのかもしれない。質店に並びながら硬直する身体とその眼、美術館から出てきた彼女が何かを見据えた瞬間のあの眼、バスタブに横たわる彼女がこちらを見据えた瞬間のあの眼、男の肩越しに、顔の他の部分から切り離されて唯一見える彼女の眼、建物のポーチから飛び降りる瞬間大写しになるあの彼女の顔。音だけは渡すまいと、猫のように身構える女優がいる。カメラ越しに仕掛けられるブレッソンの「お前を殺すのは私だ」という音のない声と、それを拒もうとするドミニク・サンダの静かな怒りとの間には、力学的な何かが働いている。

『パリのランデブー』

 「母と子 1907年」

 画家役のmichael kraftという役者は何度も手で顔を触る。
 絵を描きながら、スウェーデン女と話をするカット、このワンカットだけで三度も鼻がこすられる。
 彼が美術館にスウェーデン女を置き去りにして帰ろうとする場面、彼はただ歩いているそれらのカットにおいて、三カット連続で手を鼻へ持っていく。
 最も印象的な長回し、偶然出会った美しい女性と画家が通りを歩く、この長い移動ショットにおいては、こめかみも鼻も触り放題である。

 エリック・ロメールが仮にこの所作に意味を与えることを望んでいたとしよう。つまり、彼がこの所作の存在を撮影中に認識しており、注意して制御することも可能ではあったが、あえてしなかった、あるいはこの所作すらロメールの指示であり、これが行われる場面には一定の法則があるのだ、と仮定してみよう。

 考えうるのは、これが行為と行為の中間に存在する、「考える」という時間に与えられた所作であるというものである。「絵を眺める」と「絵を描く」の中間。「話を聞く」と「話をする」の中間、といった具合に。そうして見ていくと大体の所作を説明することは出来るように思う。


 とはいえ実のところ、法則を導き出すことを目的にしてこの文章は書かれているわけではない。映画を見てそこから法則を導き出してそれを文字にする、という行為は、出発点を探るという行為である。言い換えれば、無数に目の前に展開される映像を、ひとつの人間の考えへと再び押し戻してしまう行為である。

   ここには映画はない。映画はやはり、画家を演じるこの役者が鼻を触る、その動きの方にあるわけで、その身振りを、意味に還元し得たとしても、それそのものを言葉で再現することは不可能である。benedicte loyenの身振りは美しい。それは全く、言葉で描写することのできるものではない。

interstellar

   この映画は、マシュー・マコノヒーの夢で始まる。

   後に言及されることはあるにせよ、その内容を映像として見せることに大した意義があるとも思えないような、墜落の夢から彼は目覚める。いや、果たして彼はそれを見ていたのであろうか。我々はその映像を見ている。そしてその後に、女性の声の音声が入ってくるのとほぼ同時に、目を覚ました男の映像を我々は目にする。しかし彼は果たして目を覚ましたのであろうか。その声の主は白い光を横から浴びて、廊下に立つ女性は、まさかそれが幼い彼の娘であるとは到底思えないような見た目をしている。
 
   見る主体を欠いた夢から唐突に始まるこの映画は、似た構造を次々に組み立てながらいびつな愛の名のもとに進んでゆく。夢とはいびつである。夢を見ているということを、完璧に理解している瞬間でさえ見る主体はそこにはない。ではそこに見えるなにかについては?そこには何がある?見る主体の存在。見る主体は、果たして存在することが出来るのか。

    見る者と見られる者の間には何か隔たりがある。それは父が宇宙に旅立つ最期の時にベッドの上で背を向ける女の背中などではなく、もっと得体の知れない何かである。このような仮初めの別離など、マシュー・マコノヒーにとってなんら問題ではない。

   これ以上先へは行けない。これ以上、この道をさらに踏み込むには痛みを伴う。時間。確かに彼らは時間によって隔てられることとなる。ある星でほんの数時間をロスしたがために、その間に地球上で進んでしまったと言われる23年間を、彼は見ることになる。彼は見るのだ。こんなにも隔たってしまっているにも関わらず、彼には見ることができる。ビデオメッセージというその古典的な方法によって。変わっていく息子のその様を見ることができる。自らが老いていないにも関わらず、子供達が確かに老いてゆくことを目の当たりにして彼は涙を流すが、ここで真に彼を動揺させるのは、今や彼らの乗る船は、そのビデオメッセージを受信することは出来ても、彼らからそれを発信することはできない立場にあるという事実である。ビデオメッセージの返事が返ってこないことに失望する息子は、父が帰ってこないということに失望しているのではない。彼は自らのメッセージが、もう見られていないのかもしれないということに失望している。とはいえ彼のビデオメッセージは確実に見られている。何故ならマシュー・マコノヒーは見るからである。「今やあの時の父さんと同じ年齢に、私もなってしまった。」と語る娘の方は、そのことを理解している。彼女は見られていることを理解している。

    空間。確かに両者は空間によって隔てられている筈である。地球に存在している娘と、遥か彼方の銀河に存在している父との間には、無限の黒い宇宙が隔たっている。プランAの敵わないことを知ったマシュー・マコノヒーは狼狽し、地球に帰り娘に会いたいと切望する。ここでも見る者は見られる者を見せられる。成長した娘が故郷の家に戻って来ている様を、隔たった空間にいながら見せられる。窒息死しかけた最期の瞬間に娘の姿を見せられる。

    空間も時間も超越し見る者は見られる者を見た。そして彼はついにその隔たりを越えて存在しようとした。見る者として、見られる者の世界への侵入を試みた。全ては見る者の存在を、見られる者へと理解させるために。その焼けつくような黒と白の、光の、切断面を越えて。


    星の間を超えてゆく力がある。マシュー・マコノヒーは、アン・ハサウェイを迎えに行くために、再度宇宙船を走らせる。遠い星にて迎えを待つ、アン・ハサウェイの姿が見せられる。

 
 

批評という行為について

 批評の意味内容を歴史として絶対の真実とするのではなく、彼(批評家)が、どういう風にそこに立っていたのかを重要視するということは不可能なのでしょうか。それはつまり、書かれたものを真に生き直す(ことを試みる)ということです。

 確かに彼らによってその名を記された偉大な固有名詞達は、未だその輝きを失ってはいません。それらの映画を見返す手段は今日においていくつかありますが、そうしてそれらが現在のものとして我々の前に現れる時、それはあたかもよく寝かされたワインと同じように、過去であり現在でありうるという点において、二重の意味でその価値を保証します。
 しかしいつまでもそれらの推し進めた地平のその範疇に安住し、そして不断に生まれ続ける新しい現実をその固有名詞との照らし合わせによってばかり測ろうとすることは、他の数多のケースに見られる権威主義と同様にあまりに愚かであるように思われます。

 もし今日における批評家と呼ばれる方々が、そうした貴重な財産を盲目と節制の内に飲み尽くす道を選ぶというのであるならば、それはもううっちゃっておく他はないでしょう。しかしそれならそれで「批評」というものからはきっぱりと退いて頂きたい。何故なら批評とはむしろ、過去と未来にこそ属しているべきで、それは来るべき若い作り手、現在を生きようと試みているがために、全ての停滞を拒否し、新しい歴史を築き上げようという作家にとって、「過去」と「未来」を表明するための、恐らく唯一の方法であるからです。そしてそれと同時に、そのようにして批評における「現在」の不在を補完することこそが、考えうる新しいやり方であるように思われるのです。

attendez!

 「ちょっと待って!」

これは先日公開された、フィリップ・ガレルの映画『ジェラシー』において何度か発せられる言葉であるが、そんな日常的な些細な台詞は、それが発せられる状況も含めてあまりにささやか過ぎるので見過ごされかねない。

 とはいえ厳密に、そのひとつの単語だけが重要なのではない。「ちょっと待って!」他人を引き留めるための言葉。この映画の尺は77分である。この短さは、そうした他人を引き留めるための言葉の少なさに起因しているのではないかと思う。

 映画は冒頭、泣く女性の画から唐突に開始される。彼女は出て行こうとするルイ・ガレルを引き留めようとするが、当然それに失敗する。ルイ・ガレルの全身が、扉の向こうに消えて行こうとするまさにその瞬間に、カットは彼らの子供の部屋へと切り替わり、画面外から扉の閉まる音がしたのちにその場面は終わりを迎える。

 ルイ・ガレルはアナ・ムラグリスを引き留めることに失敗する。彼女が荷物を持って出て行ってしまった後も、ルイ・ガレルは後を追うことなど無く、二つの部屋の間で往復運動を続けるばかりである。

 全てが淀みなく進んで行く。運動は始まりから終わりへと均質に向かって行く。

 「ちょっと待って」と子供が言う。寝室の扉は少し開けておいて。「ちょっと待って」と子供が言う。彼女は唐突に脚を上げて父のお尻を蹴り飛ばす。「ちょっと待って」と子供が言う。彼女は、映画館にいた金髪の女から父が渡されたチケットを見たがっている。「ちょっと待って」と子供が言う。これ以上くすぐられると、殴ってしまう、と笑いながら彼女は言う。

 「ちょっと待って」と彼は言う。キャンディはもう返しに行かなくてもいい。「ちょっと待って」と彼は言う。替えの下着はいらないから側にいてくれ。

 人が扉から出て行った/入っていった。その後に残された僅かな余韻を、血を分けた分身達が越えて行く。彼らは同じベンチに腰掛けて、静かに豆を食べる。豆を食べる。最早彼らと切り返されるのは風景だけであり、そしてそこにある種の不動の状態が訪れる。