『十二夜』

「…しかしこの芝居は風俗喜劇ではない。詩的喜劇なのだ。上演において我々が為すべきことは、現実の劇画化ではなく、幻想的世界を創り出すことである。」ヒュー・ハント 「…この芝居は心地よさと陽気な気分に溢れている… 風刺は殆ど無いし悪意などは全く見当…

冬の日

冬至というのは一つの契機である。その日を境に少しずつ日が長くなってゆく、というのは科学だが、縁起物にもやはりそこには科学があって、御守りを冬至祭より配り始めるというのが穴八幡宮の恒例らしい。通りから見える景色も、登ってゆく石段の辺りに家族…

共に過ごしていた時間、そして今のこの、過ごしていない時間。私はどうすべきであっただろうか。 この程度の感情から、何者かに対する永久に終わりの来ない贖罪の日々が始まるというのは、何も珍しいことではない。 かと言ってこの状態のままならないのは、…

BFG

ロアルド・ダールを前にすると、常に狂人ギリギリのラインでせめぎ合う自分を感じる。BFGがそこにいることを確信してバルコニーから飛び降りるルビー・バーンヒルの方へと接近するのならそれだけ、あらゆるカットの間隙を、恐怖がその姿を隠しながら走り廻…

夢を売ること

”TIN MEN” (1987) / 『ティンメン/事の起こりはキャデラック』THE AMERICAN DREAM CHANGESTHE PEOPLE WHO SELL IT DON'T映画の立つのはそうした中間である。文明の有り方は精神と知性によって止まることなく絶えず発展しているので、ひとつの夢の形はそれ…

有村架純と『ビリギャル』

何にも縛られずのびのびと育った有村架純は自然にビリギャルとなる。 彼女が禁止或いは命令或いは社会の圧力との遭遇を強いられるところから映画は始まるのだが、しかし彼女はそれらとの間に戦線を張り抗戦をする道を選ぶのではなくむしろその内部へと飛び…

四つの夏

A.C by Adrian Tomine 持ったニュアンスがどこか皆似ているのは、16mmフィルムの質感であるとして理解は出来るかもしれない。或いは風景も、やはり共通の、土地独特の色を持っている。にも関わらず蝉の声の聞こえるのがそのうちにひとつしか無く、しかもその…

青山カレー倶楽部のこと

青山の映画館で働いていた頃は、朝10時ごろから働き始め、初回の入れ替えが済んだ時にはもう正午で、そこで昼食をとる。2分歩けばイタリア人のやるイタリアンがあり、少し歩けば大衆割烹の気の利いたランチがある。おむすび屋、タイ料理屋、蕎麦屋、うどん…

THE WALK

( 鑑賞後のおはなし ) 明るくなった部屋を後にしエレベーターに入って扉が閉まる。 体が下がり始めたその瞬間視線は自然に下へと向かい、そこに自らの足のあるのを見る。 その瞬間から強烈に自分の身体の一部として脚が意識されはじめ エレベーターを出て歩…

ある散歩について

少し前のことではあるが、7月16日、安保法制が衆議院本会議で可決された日、確か東京はまだ暑かったのではないかと思う。私は国会議事堂周辺を優雅に散歩していた。ところが気がつくと汗ばんだ人の波に呑まれ、道路を直射する照明と規則的な打楽器に頭をや…

「『息を殺して』について」について

私の表明した立ち位置とは裏腹に、「『息を殺して』について」が読まれれば読まれるほど、そのことによって件の映画は自らの知名度とそれがもたらした知的欲求を証明するという形でくるりと反撃の姿勢を構えて私に向かって迫りくるように思える。万が一私が…

『息を殺して』について

「ユニフォームを脱ぐことなど不可能である」「これこそ現実ではないか。抵抗の末の勝利などというものは最早目指されることすらしない。ユニフォームとは現に着せられてしまってそこに存在しているものであり、我々にはもう闘う相手すら見えないのだ。ただ…

『夜の流れ』

プールサイドにおける司葉子の白さは尋常ではない。それは太陽光を受けて健康的に光り輝く肌の白さであるが、この白さは繰り返されない。彼女が再び太陽光のもとで捉えられるのは、暗がりでのみ映える芸者の装いである。その白さは何処までも深みの無い、光…

『インヒアレント・ヴァイス』PTA

この映画に罪があるとすればそれは、この映画が観客を笑わせてしまっていた、というただその一点に尽きる。 私立探偵を名乗るホアキン・フェニックスがどれだけ調査を進めようとも、切り返し、高低差、望遠広角、そういった積み重なりによって推し量られる…

『やさしい女』ロベール・ブレッソン

ドアノブを握って開かれたドアが、落ちて割れる植木鉢が、急ブレーキをかける車の音が、唐突にあらわれる。上から舞い落ちる白い布だけは、まるで幻でもあるかのように、ゆっくりと宙を漂っている。 女優はこの冒頭の数カットにおいてのみ唯一殺人から自由…

『パリのランデブー』

「母と子 1907年」 画家役のmichael kraftという役者は何度も手で顔を触る。 絵を描きながら、スウェーデン女と話をするカット、このワンカットだけで三度も鼻がこすられる。 彼が美術館にスウェーデン女を置き去りにして帰ろうとする場面、彼はただ歩いて…

interstellar

この映画は、マシュー・マコノヒーの夢で始まる。 後に言及されることはあるにせよ、その内容を映像として見せることに大した意義があるとも思えないような、墜落の夢から彼は目覚める。いや、果たして彼はそれを見ていたのであろうか。我々はその映像を見…

批評という行為について

批評の意味内容を歴史として絶対の真実とするのではなく、彼(批評家)が、どういう風にそこに立っていたのかを重要視するということは不可能なのでしょうか。それはつまり、書かれたものを真に生き直す(ことを試みる)ということです。 確かに彼らによってそ…

Tom a la ferme

この農場は僕には平面に見える

attendez!

「ちょっと待って!」これは先日公開された、フィリップ・ガレルの映画『ジェラシー』において何度か発せられる言葉であるが、そんな日常的な些細な台詞は、それが発せられる状況も含めてあまりにささやか過ぎるので見過ごされかねない。 とはいえ厳密に、…

『ジャージー・ボーイズ』クリント・イーストウッド

例えば「喜劇論」であったり、「映画理論」であったり、なんでもよいのだが、そうしたものは、未来を照らし出すのに役立つことはない。それらは船の船尾灯に似たもので、ボンヤリと自らの歩んできた道のりに光りの線を描いてゆくだけである。 「理論」、そ…

少年のような

「男の子みたいな女の子というのは彼が考える女の子の理想といってよかった。」 さて、それはいったいどういうことか?それを知りたくば、ジョージ・メレディス『リチャード・フェヴェレルの試練』の第二十六章にてかわされる、リチャードとカローラの会話…

『身をかわして』『クスクス粒の秘密』について

ケシシュの映画をみるのには辛さが伴う。それはこれらの映画がただ単に物語として悲劇であるからではない。 まず初めに欲望がある。もしくは欲望が植え付けられると言えばよいだろうか。そしてそれらの欲望は、ひたすらその不可能性と正面からぶつかり続け…

カザノヴァ回想録より

『人生とは不幸の集まりに過ぎないと高言する者は、人生そのものは不幸にほかならぬといっているのと同じことである。もし、生が不幸であるならば、死は幸福ということになる。しかし、こうした人たちも、もし身体が健康で、金貨のたっぷり入った財布をもち…

饒舌さについて

私は今イタリアの色事師、カザノヴァの回想録に熱中している。人生で彼が歩んだ道のりを、その出生から遡るとともに、その過程で出逢った実に多種多様な女性たち、そして彼女たちとのドラマを、実に豊かな語り口でこちらに披露してくれる。 このカザノヴァ…

ホン・サンスの持つ方向感覚について

ホン・サンスの新作『へウォンの恋愛日記』『ソニはご機嫌ななめ』の2本をみてきた。 ホン・サンスという映画監督について、その内容であったり、そのスタイルであったりの特徴というのは、割と色々な人が似たようなことを語っているので、もうそこは人に任…

『イーダ』、あるいは『思い出のマーニー』について

これらのふたつの映画は、どうも自分の中に気持ち良く響いてこなかった。 「厳格さ」であったり「人嫌い」であったり、そういったキャラクターというのは、装いでしかありえない。少なくとも映画においては、私はそう感じている。そして私の興味は、それらの…

黒髪

『黒髪』というのは、とある中編小説の題である。これは偶然古本屋で手に取った本で、値段がそこまで高くなかったのと、書き出しが非常に気に入ったのとで、先月の終り頃に買った。その書き出しというのは、普段我々が意中の女性について友人に話をするとき…