黒髪

 

 『黒髪』というのは、とある中編小説の題である。これは偶然古本屋で手に取った本で、値段がそこまで高くなかったのと、書き出しが非常に気に入ったのとで、先月の終り頃に買った。その書き出しというのは、普段我々が、人物の容姿について、誰かへ話て聞かせるときの、その描写と同じようなもので、ある女性についての、具体的な容姿の、細部の羅列であった。

 誰かからそうしたことを耳にするというのは、しばしばそのことで、自らの内に、誰とも知らない、描写されつつたちあらわれる、そのすがたを見出だすことへと繋がりかねないが、『黒髪』の冒頭を目にした時にも、似たようなことが起きた。ここで起きているのは、どういうことなのだろう。『黒髪』冒頭に描かれる細部たちが、その微妙になにか差異をまとったニュアンスへの執着と、その具体性とによって、こちらの内に、ある任意の女性の像を創り出す、それはまだ見も知らない誰かを描写した言葉であったはずの抽象から、ある任意の女性のすがたが、自らの内にぼんやりとその影をあらわすという、極めて刺激的な現象であった。

 

    とはいえ映画や小説というのは、結局は見るものであって、生きるものではない。エリック・ロメールコレクションする女』を前にすると、そのことを実感する。「アイデ」と名を冠した、冒頭のプロローグ、どことも知れない、ほとんど抽象的なまでに水と砂しかない、浜辺を歩く「アイデ」、薄く水着を一枚纏ったその身体の細部が、クローズアップとして提示されるたびに、スクリーンに映し出される俳優という存在が、『黒髪』とはまた異なるやり方で、こちらへと迫ってくるのを感じる。たしかに彼女は生きてこの世を歩いた、生身をもった、人であったはずなのだが、その微妙に差異をまとったニュアンスへの執着と、その具体性とが、こうして明らかに迫ってくると、ほとんどなにをみているのか、分からなくなってくる。たしかに私は彼女をどこかで見たことがあるようにおもう。