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黒髪

映画

 『黒髪』というのは、とある中編小説の題である。これは偶然古本屋で手に取った本で、値段がそこまで高くなかったのと、書き出しが非常に気に入ったのとで、先月の終り頃に買った。その書き出しというのは、普段我々が意中の女性について友人に話をするときの説明と同じようなもので、ある女性の魅力についての、具体的な細部の羅列であった。

 友人からそうした説明を受けるというのは、しばしばその友人よりも、自らの内に女性への恋心を見出だすことへと繋がりかねないが、『黒髪』のその冒頭を目にした時にも、まさに似たようなことが起きた。ここで起きたのは「好み」の共振とでも言えるであろうか。『黒髪』冒頭に描かれる女性の細部たちが、その豊かさと、その具体性とによって、こちらの内にある女性の像を創り出す、それは他人の言葉という抽象的なものから、ある現実の女性という具体的なものが、自らの内に想起されるという、極めて豊かな現象であった。

 

 この豊かな倒錯の中に、私は生きてしまっている。現実に女性を求めながら、映画や小説を求めてしまっている。映画や小説というのは、結局は見るものであって、生きるものではないのだ。エリック・ロメールの『コレクションする女』と遭遇しさえすれば、その倒錯はすぐに理解することができる筈である。「アイデ」という名を冠された、冒頭のプロローグ、抽象的な浜辺を歩く「アイデ」と呼ばれるその女性の細部が提示されるたびに、私はスクリーンを前にして苦しめられる。現実を生きねばならない。