『イーダ』、あるいは『思い出のマーニー』について

 
 「厳格さ」であったり「人嫌い」であったり、それらがキャラクターとして与えられるときには、それは装いでしかありえない。少なくとも映画においては、私はそう感じている。何故なら、それは多かれ少なかれ、演出するものによって与えられた、装いの域に止まらざるを得ないからである。であるから私の関心は、それらの装いが、どのようなやり方で、装われるかにあり、更にはその装いが、いかなる身振りとともに、脱ぎ捨てられることになるか、あるいはままならなくなっていくか、というところにあるといえる。
 
    イーダは劇中、荘厳な雰囲気のなか、自身修道女の服を脱いで、男のもとへ向かうことになるのだが、この場面の映像を信じることができないというただ一点にのみおいて、私はこの修道女の中に芽生えたであろう欲求らしきなにものかを、映画において信じることが出来ない。修道院で育った者が、その象徴として身を覆っていた衣装を脱いで、すがたを露わにするという仕草が、そこに演出として書き込まれているにも関わらず、画面上においてその行為は、彼女がほとんどカメラを眼差しながら、自らの顔にすべてを賭けてなされる決断として、正面から考えなされた行動としてしか、物語上の描写はなされていないのである。
   あくまで着せられていたものに過ぎなかった(それは物語上ある生まれの問題という面からしても、或いは演出の存在という視点からも)、修道女の衣服を、意志的に、脱ぎ去る、その任意の瞬間において、カメラを眼差す、ひとつの女優の顔に注目を促す映画というのが、果たしてあってよいのだろうか。我々はそこになにをみればよいのだろう。カメラのほうを眼差しながら、髪を覆っていた三角巾を外し、するすると、彼女は髪をほどいてみせる。そうしたある種の最初の瞬間を、全く俳優にとっての受動的な映像、つまり画面上にほかに映るものがほとんど無く、カメラと演出とが、その場面を独占しつつ、観客へと差し向けてくるといった事態には、ある種の暴力の倒錯したかたちを垣間見ることができる。これは『思い出のマーニー』において、湿っ地屋敷に惹かれつづけるアンナの欲求を、ついに最後まで信じることが出来なかったことと、どこか似たできごとのように思える。
 
   エリック・ロメール『夏物語』を思い出す必要がある。メルヴィル・プポーに与えられた装いは、「気まぐれな彼女を待ち続けている内気な男」であり「女友達と浜辺で散歩する男」であり、「音楽で食べていくことを志す男」である。初めは彼は、その全てを見事に装って映画に現れる。しかし彼が三人の女性の間でどっちつかずの状態になるにつれて、次第にその装いはままならなくなっていく。
 
  『夏物語』の終わり、プポーとアマンダ・ラングレは一度だけキスを交わすが、そのふたりを横から捉えたショットは、見るたびに「こんなであったか」と思ってしまうほどに素っ気なく撮られている。にも関わらず、記憶の中に鮮烈に残っているのは、ラングレとの関わりによって、プポーの装いが殆どままならなくなっていたということを、すでに十分すぎるほどに我々が目の当たりにしているからであるし、そしてこのキスの瞬間、一瞬ではあるがプポーが装いから、真の意味で自由になっているということを、どうやらここに感じるからである。これは性癖の話である。
 
  こうした屈折した性癖に基づいて撮られている映画は、果たして今日存在しているであろうか。そしてそうした映画はそもそも望まれているのであろうか。キスはどこかで受動的でなければならず、であるがこそ、それは真に望まれたものであったということを信じさせてくれる映画…