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『イーダ』、あるいは『思い出のマーニー』について

映画
これらのふたつの映画は、どうも自分の中に気持ち良く響いてこなかった。

 「厳格さ」であったり「人嫌い」であったり、そういったキャラクターというのは、装いでしかありえない。少なくとも映画においては、私はそう感じている。そして私の興味は、それらの装いが、まずどのようなやり方で装われるかにあり、更にはその装いが、いかなる方法で脱ぎ捨てられることになるか、あるいはままならなくなるか、というところにある。

 イーダは劇中、自ら修道女の服を脱ぐが、脱がされることはない。些細なことかもしれないが、この一点において、私はこの修道女の中に芽生えたであろう欲求を信じることが出来ない。つまり修道院で育った若い女性が、まさにその育ちの象徴としての衣装を脱ぐというのに、あくまでその行動は本人がひとりで部屋にいる時に考えてなされた行動としてしか描写されていないのである。
 これは『思い出のマーニー』において、湿っ地屋敷に惹かれるアンナの欲求を、ついに最後まで信じることが出来なかったことと似た事象のように思える。

 ここでエリック・ロメール『夏物語』を思い出してみたい。メルヴィル・プポーの装いは、「気まぐれな彼女を待ち続けている内気な男」であり「女友達と浜辺で散歩する男」であり、「音楽で食べていくことを志す男」である。初めは彼は、その全てを見事に装って映画に現れる。しかし彼が三人の女性の間でどっちつかずの状態になるにつれて、次第にその装いはままならなくなっていく。

 『夏物語』のラスト、装いとしての散歩の記念にと、プポーとアマンダ・ラングレはキスを交わすが、そのふたりを横から捉えたショットは、見るたびに「こんな画であったか」と思ってしまうほどに素っ気なく撮られている。にも関わらず、その画が、そこで交わされる唇の交わりが、記憶の中に鮮烈に残っているのは、ラングレとの関わりによって、プポーの装いが殆どままならなくなっていたということを我々が知っているからであるし、そしてこのキスの瞬間、一瞬ではあるがプポーが装いから自由になっているということを我々が理解するからである。

 こうした屈折した性癖に基づいて撮られている映画は、果たして今日存在しているであろうか。そしてそうした映画はそもそも望まれているのであろうか。キスがただ交わされることで満足するのではなく、そのキスが真に望まれたものであったということを信じさせてくれる映画…