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『身をかわして』『クスクス粒の秘密』について

 ケシシュの映画をみるのには辛さが伴う。それはこれらの映画がただ単に物語として悲劇であるからではない。

 まず初めに欲望がある。もしくは欲望が植え付けられると言えばよいだろうか。そしてそれらの欲望は、ひたすらその不可能性と正面からぶつかり続ける。この二つのベクトルは決してズラされることはない。

 『クスクス粒〜』の終盤、並行モンタージュで描かれる3人の行動。そのズレなさ。

 スクーターを若者に奪われた父親は、それを追って走る以外の選択肢を与えられない。

 腹の出た少女は、ひたすらベリーダンスを踊り続ける以外の選択肢を与えられない。

 クスクスを上手く作ることの出来ない女は、しかしそのクスクスを作る以外の選択肢を与えられない。

 これらは全て、父親の夢の実現を願った末の、各々の行動であるが、しかしそれらの並行モンタージュは、ついに一箇所に収束されることなく終わる。この悲しみ。ベリーダンスと彼女の腹は、唯一その固有性によって一瞬滑稽さを引き起こすが、しかしそれが延々と続けられることによって、いよいよその滑稽さも薄れ、最早父親の夢の不可能性としか結びつかなくなっていく。

 なぜズレないか。ここには外部というものが存在していないからである。というよりも外部も内部も全てが予め映画の中に存在し、そこにはある種の規則が生まれてしまってすらいるので、最早それは閉じているように見えるのである。(それは勿論、意図的にそのように限定されている、とも言えるのであるが。)

 少しずつ登場人物たちの生活の形は変わってはいくものの、それは昨日と今日とが完全に同じではないことと同程度のことでしかなく、根本的なベクトルは同じままである。

 ここにひとつの辛さがあるような気がする。「この現実とは別のものを」と彼らは希求するが、しかしその想像力は、閉じ切っているこの世界の枠を越えてはいかない。更にはそうした彼らの欲望のベクトルを図らずも変換する機能を果たすかもしれない、何かしらの更なる外部の存在は、頑なに拒まれる。

 

 こうしたやり方は、確かに「世界」もしくは「現実」の理不尽さを表象することにはなるのかもしれない。しかし「現実」を描くというのは今や、『未知との遭遇』など最早ありえないという悲しさを描くことなのであろうか。

 

 私がそのような「現実」を見ることを恐れているだけなのかもしれない。仮に本当に「現実」というものがそうなってしまっているとしても、少なくとも私にとってはそうは見えない。とにかく私は混乱している。全てのここまで書いてきたことは、未だに疑問形として私の中に残っている。