『ジャージー・ボーイズ』クリント・イーストウッド

 例えば「喜劇論」であったり、「映画理論」であったり、なんでもよいのだが、そうしたものは、未来を照らし出すのに役立つことはない。それらは船の船尾灯に似たもので、ボンヤリと自らの歩んできた道のりに光りの線を描いてゆくだけである。

 「理論」、それはあるケースには「作家性」とも言い換えることができるのかもしれないが、そういうものの存在は、演出されたそれぞれの場面、映画というひとつの長い時間経過の中のそれぞれの部分に、何かしらの存在意義を与える。そこで描かれる人物の現在、もしくは未来は、その船に付けられた船尾灯によって残されてきた一本の線の延長線上にあるということによって必然性を獲得する。

 『J・エドガー』も然り、『ジャージー・ボーイズ』には、そうした「作家性」、あるいは更に言ってしまえば「上手さ」というものにすら、導かれることを拒否する身振りがあるように思える。全てのシーンは、何らかの出来事をうつしてはいるが、しかしそれらはどうも気持ちの良いひとつの線を描いてはくれない。これらの存在は、最早それが単なる時間の経過としてある以外には存在する意義など持たぬかのような、得体の知れない何かとして、ひたすらに積み重ねられていく。
 ここであの老けメイク、どちらの映画でも最後に登場する、登場人物たちに施されたあの不気味な老けメイクのことを思い出さずにはいられない。この映画は、あの老けメイクの有りように似ている。それはあのボブという作曲家が、ある瞬間(その瞬間がいつであったかを私は全く覚えていない)から全く似合わないつけ髭を生やし始めた所から徐々にあらわになり、そして最終盤に、それぞれ老けメイクを施したフォー・シーズンズのメンバーが、再結成ライブでカメラ目線で語りを始める瞬間など、その得体の知れない複合物を前にして、動揺しないものはあるまい。この動揺は、まさしく老けメイクというものに対する違和感からのものである。しかしその違和感ばかりが気になって仕方が無いのはひとえにこの映画自体がそうした違和感を有しているからであり、そしてそれは恐らく似た形で、『ジェラシー』というフランスの映画にも存在している。