読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

interstellar

   この映画は、マシュー・マコノヒーの夢で始まる。

   後に言及されることはあるにせよ、その内容を映像として見せることに大した意義があるとも思えないような、墜落の夢から彼は目覚める。いや、果たして彼はそれを見ていたのであろうか。我々はその映像を見ている。そしてその後に、女性の声の音声が入ってくるのとほぼ同時に、目を覚ました男の映像を我々は目にする。しかし彼は果たして目を覚ましたのであろうか。その声の主は白い光を横から浴びて、廊下に立つ女性は、まさかそれが幼い彼の娘であるとは到底思えないような見た目をしている。
 
   見る主体を欠いた夢から唐突に始まるこの映画は、似た構造を次々に組み立てながらいびつな愛の名のもとに進んでゆく。夢とはいびつである。夢を見ているということを、完璧に理解している瞬間でさえ見る主体はそこにはない。ではそこに見えるなにかについては?そこには何がある?見る主体の存在。見る主体は、果たして存在することが出来るのか。

    見る者と見られる者の間には何か隔たりがある。それは父が宇宙に旅立つ最期の時にベッドの上で背を向ける女の背中などではなく、もっと得体の知れない何かである。このような仮初めの別離など、マシュー・マコノヒーにとってなんら問題ではない。

   これ以上先へは行けない。これ以上、この道をさらに踏み込むには痛みを伴う。時間。確かに彼らは時間によって隔てられることとなる。ある星でほんの数時間をロスしたがために、その間に地球上で進んでしまったと言われる23年間を、彼は見ることになる。彼は見るのだ。こんなにも隔たってしまっているにも関わらず、彼には見ることができる。ビデオメッセージというその古典的な方法によって。変わっていく息子のその様を見ることができる。自らが老いていないにも関わらず、子供達が確かに老いてゆくことを目の当たりにして彼は涙を流すが、ここで真に彼を動揺させるのは、今や彼らの乗る船は、そのビデオメッセージを受信することは出来ても、彼らからそれを発信することはできない立場にあるという事実である。ビデオメッセージの返事が返ってこないことに失望する息子は、父が帰ってこないということに失望しているのではない。彼は自らのメッセージが、もう見られていないのかもしれないということに失望している。とはいえ彼のビデオメッセージは確実に見られている。何故ならマシュー・マコノヒーは見るからである。「今やあの時の父さんと同じ年齢に、私もなってしまった。」と語る娘の方は、そのことを理解している。彼女は見られていることを理解している。

    空間。確かに両者は空間によって隔てられている筈である。地球に存在している娘と、遥か彼方の銀河に存在している父との間には、無限の黒い宇宙が隔たっている。プランAの敵わないことを知ったマシュー・マコノヒーは狼狽し、地球に帰り娘に会いたいと切望する。ここでも見る者は見られる者を見せられる。成長した娘が故郷の家に戻って来ている様を、隔たった空間にいながら見せられる。窒息死しかけた最期の瞬間に娘の姿を見せられる。

    空間も時間も超越し見る者は見られる者を見た。そして彼はついにその隔たりを越えて存在しようとした。見る者として、見られる者の世界への侵入を試みた。全ては見る者の存在を、見られる者へと理解させるために。その焼けつくような黒と白の、光の、切断面を越えて。


    星の間を超えてゆく力がある。マシュー・マコノヒーは、アン・ハサウェイを迎えに行くために、再度宇宙船を走らせる。遠い星にて迎えを待つ、アン・ハサウェイの姿が見せられる。