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『パリのランデブー』

 「母と子 1907年」

 画家役のmichael kraftという役者は何度も手で顔を触る。
 絵を描きながら、スウェーデン女と話をするカット、このワンカットだけで三度も鼻がこすられる。
 彼が美術館にスウェーデン女を置き去りにして帰ろうとする場面、彼はただ歩いているそれらのカットにおいて、三カット連続で手を鼻へ持っていく。
 最も印象的な長回し、偶然出会った美しい女性と画家が通りを歩く、この長い移動ショットにおいては、こめかみも鼻も触り放題である。

 エリック・ロメールが仮にこの所作に意味を与えることを望んでいたとしよう。つまり、彼がこの所作の存在を撮影中に認識しており、注意して制御することも可能ではあったが、あえてしなかった、あるいはこの所作すらロメールの指示であり、これが行われる場面には一定の法則があるのだ、と仮定してみよう。

 考えうるのは、これが行為と行為の中間に存在する、「考える」という時間に与えられた所作であるというものである。「絵を眺める」と「絵を描く」の中間。「話を聞く」と「話をする」の中間、といった具合に。そうして見ていくと大体の所作を説明することは出来るように思う。


 とはいえ実のところ、法則を導き出すことを目的にしてこの文章は書かれているわけではない。映画を見てそこから法則を導き出してそれを文字にする、という行為は、出発点を探るという行為である。言い換えれば、無数に目の前に展開される映像を、ひとつの人間の考えへと再び押し戻してしまう行為である。

   ここには映画はない。映画はやはり、画家を演じるこの役者が鼻を触る、その動きの方にあるわけで、その身振りを、意味に還元し得たとしても、それそのものを言葉で再現することは不可能である。benedicte loyenの身振りは美しい。それは全く、言葉で描写することのできるものではない。