『やさしい女』ロベール・ブレッソン

 
 ドアノブを握って開かれたドアが、落ちて割れる植木鉢が、急ブレーキをかける車の音が、唐突にあらわれる。上から舞い落ちる白い布だけは、まるで幻でもあるかのように、ゆっくりと宙を漂っている。
 
 女優はこの冒頭の数カットにおいてのみ唯一殺人から自由になる。路上にうつ伏せに横たわり頭から血を流す女性の姿を見て、白い布を纏った人間が階上から落ちたのだろう、というような認識がひとまず生まれるわけだが、しかしだとしても、我々はまだ彼女の存在を全く認知しておらず、ゆえにここで我々が遭遇したかもしれない死とは、極めて無機質な、つまり決して殺人などと読まれるようなものではなく、ましてや悲しみなど感じるはずもなく、あくまで「死」としてしか認識しようのない、動かない彼女の身体である。
 
 ブレッソンは怒っている。どこまでも目の前の映像の表面を滑り続けていく男の語りの声は、我々に視ることを困難にする。男の回想によって語られる映像のほぼ全編において、ドミニク・サンダは決してやさしいわけでも穏やかなわけでもなく、むしろ全ての瞬間において、認識という言葉の手から逃れようとじっと静かに身を硬直させているようにみえる。その硬直は自然に死体の硬直へと繋がり、棺桶を閉じる釘の音の無機質さへと繋がる。
 
 この映画において、殺人はあらかじめなされている。ひとつにはそれは、路上で、部屋のベットで、そして最後は棺桶の中で横たわっていた、ドミニク・サンダの身体の硬直によって示される殺人であり、そしてもうひとつは、男によって回想されるドミニク・サンダの、その全編に渡って緩むことのない、認識を拒むあの硬直の身振りによって示される殺人である。映画はその2つの殺人の間を行き来する。そしてどちらのドミニク・サンダも、一度も真に耳で聞かれることはない。棺桶の中に横たわるドミニク・サンダの頭を抱えて、「眼をあけてくれ」と声を発する男は最後までそこを取り違えている。本当にここで必要なのは、二階から一階へ聞こえてきた彼女の歌声(観客にそれが聞こえてくることはない)が、棺桶の中から再び漏れ聞こえてくることである。
 
 この映画を前にして、何か得体の知れない怒りのようなものの存在を感じるのは、『やさしい女』として認識されていたはずのドミニク・サンダが、瞬間瞬間において気付かぬうちにこちらへ向けて放っていた抵抗の気配のせいなのかもしれない。質店に並びながら硬直する身体とその眼、美術館から出てきた彼女が何かを見据えた瞬間のあの眼、バスタブに横たわる彼女がこちらを見据えた瞬間のあの眼、男の肩越しに、顔の他の部分から切り離されて唯一見える彼女の眼、建物のポーチから飛び降りる瞬間大写しになるあの彼女の顔。音だけは渡すまいと、猫のように身構える女優がいる。カメラ越しに仕掛けられるブレッソンの「お前を殺すのは私だ」という音のない声と、それを拒もうとするドミニク・サンダの静かな怒りとの間には、力学的な何かが働いている。