『息を殺して』について

「ユニフォームを脱ぐことなど不可能である」「これこそ現実ではないか。抵抗の末の勝利などというものは最早目指されることすらしない。ユニフォームとは現に着せられてしまってそこに存在しているものであり、我々にはもう闘う相手すら見えないのだ。ただ夜を浪費し、白い朝を迎えること。その深みの無さに時たま怯えながら。」

  もしこの映画からそのような声が聞こえてくるよう何者かが仕向けたのであれば私はそれを拒否する。こうした言葉は、切実さの問題を度外視すれば、ラーメン屋が美味いか不味いか云々といった劇中の会話と同じ地点にとどまっている。
    あるラーメンの存在が美味いか不味いかという地平で語られる時、肝心のラーメンについての一切は無視されている。そこでは言葉の方にもラーメンの方にも、現実に存在するはずの豊かさは少しもない。この映画において登場人物は全員ラーメン屋を美味いか不味いかで語ることに終始するのであるが、彼らは口を噤むこともせず、その舌と経験と記憶の貧しさを晒しているようにみえる。「愛している/愛していない」「可能/不可能」「みえる/みえない」「ふれる/ふれない」これらの貧しい分類的言語活動によって成り立っているのが『息を殺して』という映画である。
    そこでは最早幽霊との遭遇も、ラーメン屋についての言説と同じように「みえた」「ふれた」にとどまり、得体の知れないものと対峙する困難などなければ、またその遭遇の痕跡は肉体的にも精神的にも傷痕は何も残さない。そのようにしてただ「見えました」ということだけが証明されるとき、本来豊かなものでありえた筈の未知との遭遇が、ただの科学的証明に成り下がっているかのような一種の逆転が生じ、ぬっと現れた作家の顔が、勝利の方程式を声高に叫ぶ声が聞こえ始めて私は耳を塞ぐ。

    現代の日本で撮られた別の映画を、我々は武器として選択しよう。『不気味なものの肌にふれる』において、あの映画の登場人物が何を目指して発話していたかをもう一度良く考えてみるべきだ。彼らは映画的世界において彼ら自身の存在をゼロから掴み取ろう(表象しよう)と言葉を発していた。分類の作業ではない、未知の世界と触れあう試み。一言言葉を発するたびに世界は加速し、新しい世界との接触面が生じる。そしてそのような世界の、豊かさを持った極致として、ロメールは映画を現実に送り返すことに成功しているように思える。
    そうした作業を怠り、何処かに存在するかもしれない現実に依拠し、必要には到底届き得ない地平の言葉を必要以上に並べることで時間を浪費するなどというのは怠慢以外の何者でもない。そしてそうした怠慢と諦念とによって成り立っている人間の在り方が、2017年末日の未来の現実として提示されているということ。来るべき未来はそのような貧しいものでしかないのか。そうであると言うならば、その責任のいくらかはこの映画自身にある。