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「『息を殺して』について」について

   私の表明した立ち位置とは裏腹に、「『息を殺して』について」が読まれれば読まれるほど、そのことによって件の映画は自らの知名度とそれがもたらした知的欲求を証明するという形でくるりと反撃の姿勢を構えて私に向かって迫りくるように思える。万が一私が映画について文章を書くことを生業にして生きている立場にあった場合、私の財力は殆どが私の努力如何とは無関係に、対象に取る映画の存在次第で変わってくることになるはずで、そうするともう働いているのは私というよりもその映画の方であるようにも思えてきて、そんなありがたい存在を半ば否定するような強気な記事などとても書けないぞと弱気な人間が、突如自分の中に生活を始めたことに気付いて愕然とする。
   「これはいかん」とその逆転を立て直そうとする。しかし万が一にも私の書いた記事によって件の映画へ攻撃の手が強まり、そして間接的に手を下した張本人の私がその映画の知名度とそれがもたらした知的欲求の大きさに応じて金を受け取るなどという事態を想像するとき、勝負に勝ったように見えてその実、「見られる」という自己の労働を全うした映画に労働を奪われた私は殆ど自らの文章を乗っ取られ、私が記事に刻印したとばかり思っていた労働の証のようなものもぐらりと怪しくなってくるのだ。こうなるとどちらがどちらを乗っ取るかという争いになってくる。

    しかしどうして本来は愛し合ってもおかしくない筈の両者がこのように殺気立った目でお互いを眺めねばならないのであろうか。或いは見せかけの連帯の名のもとに、批評が映画を前に無限に舌舐めずりを繰り返すといったような。
    映画には批評が足りておらず、批評には映画が欠落している。現在には過去と未来が足りておらず、過去と未来からは現在が欠落している。本来それらは地続きでひとつの連なりを表すはずで、そこにようやく作家が現れるのに