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ある散歩について

  

 少し前のことではあるが、7月16日、安保法制が衆議院本会議で可決された日、確か東京はまだ暑かったのではないかと思う。私は国会議事堂周辺を優雅に散歩していた。ところが気がつくと汗ばんだ人の波に呑まれ、道路を直射する照明と規則的な打楽器に頭をやられ、仕方なく顔を盗み見る。その後はただただ煙草を吸うことだけを考えていた。
 顔を盗み見た幾人かの中で、とりわけ大きな声を出していた人達は皆一様に黒々と笑っていたような気がする。私の記憶ももう曖昧になってはいるが、しかし確かにその口からは白い歯が不気味に光っていた。
 「民主主義ってどんなだろう。これが民主主義だ。」
 そのような意味の言葉がカタカナの言葉で聞こえてきた。
 これはなんだ。敵を得て初めて正当に認められた、それが故に生き生きと、行使される暴力としての思考停止ではないのか。

 私は自らの信じられる答えを選択したい。しかしそのことを望めば望むほど、それと同時にどこまでいけば「わかる」のか、というところが「わからなく」なってきている。私には安倍晋三が打倒すべき敵であるのかさえもよくわからない。わからないというのはつまり、思考がまだそこで停止することを許さないということである。真の意味で、自分の頭で考えるというのはこうした変わり続ける思考を要請するはずなのだ。自らの思考停止を何より恐れるのであれば、「わかる」という形での終点は決して存在してはいけない。

 全能の知性が、ついに完全無欠たる思考の終点に到達し得たとする。果たしてそのようなことが有り得るのか、仮にそれが有り得たとして、しかしそうするとその思考とはそれ以上なにひとつ発展することのありえない思考を意味するのだから、その時思考は「あっ」とでも声を上げて死ぬほかない。

 このような止まることのできない思考は何も生まないと人は言うかも知れない。確かにそうだ。現状において私は、何ひとつを「わかる」ことのできない、どちらの勢力にも加担出来ない、ただの役立たずなのである。こうなると私の頭はもう、動いても動いてもそれらの運動と全く交わることのない軌跡を描き始めて手に負えない思考を再装填する。