THE WALK





( 鑑賞後のおはなし )




    明るくなった部屋を後にしエレベーターに入って扉が閉まる。

    体が下がり始めたその瞬間視線は自然に下へと向かい、そこに自らの足のあるのを見る。

    その瞬間から強烈に自分の身体の一部として脚が意識されはじめ

    エレベーターを出て歩き始めようという時、歩みは綱渡りを真似ている。

    映画をみたはずみに歩き方が変わってしまうというのは、ごく稀に、起こることではある。より説得力のある(かもしれない)例として、ロベール・ブレッソンジャック・タチの作品がある。ただそれらとは異なり、この『The Walk』では、ジョゼフ=ゴードン・レヴィットの歩く姿を、殆ど見た記憶がない。

    ジョゼフ=ゴードン・レヴィットは、果たして地上をどのように歩いていただろう。日常的な歩行、両手を振り両脚を交互に前に出す、そういう意味での彼の歩く姿というのは、この映画においては巧妙に排除されていた筈だ。

    まず彼はその役の性質上、常に大掛かりな商売道具を抱えていなければならない。そのため手は常に塞がり、日常の歩行の様子も、歩いているというよりは、どこかからどこかへと単に移動しているだけといったものになっていた(或いは商売道具の一輪車に乗り「移動する」)。
   また、未来の恋人となるであろう女性を口説く場面では、彼は自前の商売道具に加えて、雨避けに大きなパラソルを担がなければならず、そのため二人並んでの歩みは即座に終了し、彼はすぐさま彼女を食事に誘うのだ。
    世界貿易センタービルを念入りに視察する場面のみがほぼ唯一、彼が地上を(変装することで)自由に歩き回ることが出来ていた時間であったのだが、しかしそのつかの間の歩みも、落ちていた釘を踏むという、全く不運としか言いようのない出来事によって中断されてしまう(傷は、クライマックスのパフォーマンスには何故か全く影響を及ぼさない。と共に、視察中の彼が松葉杖をつき、或いは車椅子に乗り、意気揚々と「移動」していたというのは忘れられない)。
    こうして一般的な名詞としての Walk は悉く排除され、代わりにある種固有名詞に近い The Walk が際立つこととなる。彼が歩くためには、とにかく商売道具を設置し、綱の上へ足を踏み出す必要がある。

    ブレッソンやタチが、強固な美学と形式のもとに「そういうものだ」と言い切って実践していた美しい歩行形態に似た感覚を、鑑賞後の私に与えた歩みというのが、物語的な主題として、綱渡りという機能的かつ美学的に高められた The Walk として遠回しに実践されていた、というのはゼメキスの密かな狙いのあるところかもしれない。
    その試みは確かに、最終的に物語的成功に回収されかねないものである。しかし見世物としての綱渡り、世界貿易センタービルの間を渡るという、見世物としての The Walk を見せるという欲求が、果たしてこの監督にあったのかは少々疑わしい。とにかく実現されるその足の運びのみが、慎重に前へと足が出されるということ自体のもつ緊張感と美しさばかりが、目にしたものの大部分であったはずだ。
   少年時代のジョゼフ=ゴードン・レヴィットがサーカスに潜り込み綱渡りを見るという場面においても、ライトアップされたパフォーマーと彼の綱を映す引きの画こそ入るものの、少年が座席に着いて綱渡りを見始めた瞬間から、綱渡りは足先の運動のみに限定される。

   何故であろうか。

   憧憬は即座に消え去り、我々には綱の軋む音ばかりが聴こえる。















(鑑賞中のおはなし)








にやけ始める顔 









にやけつづける



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