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四つの夏

  

 

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 A.C by Adrian Tomine

 

    持ったニュアンスがどこか皆似ているのは、16mmフィルムの質感であるとして理解は出来るかもしれない。或いは風景も、やはり共通の、土地独特の色を持っている。にも関わらず蝉の声の聞こえるのがそのうちにひとつしか無く、しかもそのひとつというのが、冷房の効いたさむい室内を意識していたというのは、私の気になる所である。
 
     冷房の効いた部屋とともにやってくる夏というのを、欲しいままに味わい尽くすようになったのは、実家を出てからであるように思う。実家を出てから、というのは私にとって東京での生活を意味する。私が実家を出たのは大学二年生の春で、その頃にはもうチルウェイヴはすぐそこまで来ている。
 
    東京以前と東京以後というのは、間違いなく、ある。私が幼い頃読んでいたいくつかの絵本のことを思うと尚更。私の記憶では、絵本作家の少年たちは何故か肌を黒や茶色に塗られて、泳ぐ魚と一緒に水に飛び込んだり、妙な姿勢で速く動き回ったりしていた。私だって夏には肌を焼き、負けじと水に飛び込んだり、速く動き回ったりした。
 
   夏の熱気にさらされたカメラを持つ子供の運動、夕暮れに吹く風を汗に濡れた肌が受けとめた時起こる清涼の実感を与えるひとつめの夏は、私にとって絵本の夏、故郷の夏だ。階段の手すりの石の部分に体ごと跨りその冷たさを享受するという経験は、ついに私には訪れなかった。しかし私はそれを縁側の冷たさと較べる。その冷たさを、体温はすぐ奪ってしまうことを私は知っている。或いは工事の音は確かにこう鳴っているはずだし、夏の光、そこここに目に見える風は、今も昔もきっとこうなのだと思う。
 
   そこで四つめの夏だが、蝉の音が鳴りつつも、ここには不思議に暑さが無い。それは他でもない、神社は木陰に涼しく、室内には冷房の効いているからだが、それは終盤交わされる冷房そのものに関するやり取りによって明らかになるものというよりは、閉め切った窓によって、はじまりから無意識のうちに空気を調節していくものであるように思う。或いは服装にしても、ふたつめのように太腿があらわになっていたり、みっつめのように薄着のオフィスシャツが少し乱れていたりといった、女性のある種プリミティブな姿はそこには無く、どこか涼しげな、エアー・コンディショニングの感覚が、やはりそこにある。
 
   こういう色々な夏というのはどれが良いどれが悪いというものではなく、どれも夏なのだろう。これは感覚の話である。
 
   私はここ数年冬が来るたびに、「この冬はどうやっても明けない」 としか考えられない。その感覚がひとたび訪れると、来るべき春や、かつて間違いなくあったはずの春をも忘れ去って妙に鬱々としてきて、その反動かはわからないが、人知れず地球に接近し続ける隕石の存在の夢想を始め祈るように安定する。
 
    この話を会うたび友人にしてみると、全く私にはその感覚はわからない、と返されることもあれば、或いは冬が明けない云々の所まではなんとなく私にもわかるが、隕石のこととなると、私にもさっぱりわからないと言う人もいたりする。
 
    隕石の想像が、ここ数年の冬が持つ不思議な感覚を言い表すのに余りに不適切であることを知るたびに、私は悲しい。私はまだ東京の冬を掴みそこねているのだろう。しかしこの四つ目の夏を、東京の夏と名付けたくなる欲求は、少しある。神社と家とがドアトゥドアで繋がってしまうのも、私にはそれが東京の夏らしく思える。急転直下で退屈を感じ始める女性に、私は東京を感じる。これは感覚の話である。
 
 
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2016.3.12
 
みんなで映画のつくり方を学ぶために友だちに書き送る手紙 vol.1 
 
『どうでもいいけど』/ 佐々木 健太
『感光以前』/ 竹内里紗
『帰れないふたり』/ 竹林 宏之
『しじゅうご円』/ 清原 惟