有村架純と『ビリギャル』


   何にも縛られずのびのびと育った有村架純は自然にビリギャルとなる。

   彼女が禁止或いは命令或いは社会の圧力との遭遇を強いられるところから映画は始まるのだが、しかし彼女はそれらとの間に戦線を張り抗戦をする道を選ぶのではなくむしろその内部へと飛び込み、自らを媒介としあらゆる硬直した概念に変化を与え、ついにはそのものと一緒になってこちらを魅了してしまう。
    
   プロローグ的に語られる荒唐無稽な彼女の幼少期において、母親は些か乱暴にも見えるやり方で、娘の環境を整える。そこにある教育方針とは娘の生きたい様に生きさせてやるというものであるので、娘の前に障害の影が少しでも現れようかというその刹那には、母親は駆けつけ、障害から娘を逸らす。そこに批評は働いていない。人間を構成する絶対と相対の微妙な混じり合いのうち、母親の方針における全比重は絶対の方にある。結果として娘の相対的位置が「学年ビリのギャル」となるのも、母親にとってさして問題ではなく、娘の絶対を信じて彼女はその方針を実行に移す。

   その結果として娘の絶対は、あらゆる反動的精神と無縁に育つことになる。このことは彼女の在り方において重要である。彼女は世界に広がるあらゆる具体を、出会ったままに受け止める。であるから彼女が成長し髪を染め、スカートを短くするに至ったのも、目の前にあったものをカワイイと彼女が思ったためにそうしているのであって、或いは彼女が全く勉強をしてこなかったというのも、単にそれをせずともやっていける状況(エスカレーター式の私立校)に彼女がおり、その上でそちらを選んだまでである。そしてそれら要素は彼女を「ビリギャル」と一旦規定するわけであるが、しかし彼女はその位置から殆ど自由である。彼女は「ビリギャル」であることに何物も負ってはいないし、殆どそこに縛られてはいない。彼女はその肯定の都度、不断に変化し続けうるのであり、変化を拒んでいるのは寧ろ彼女の目の前にある社会の方なのである。
    
   そんな彼女であるから、塾に初めて現れた際、そのへそを出したルックを下から上へとカメラが舐めるように映し出したとき、『え、つかガン見しすぎじゃね』と単純にツッコミ返すことでその視線の交換を対等なものにしてしまう。或いはテストでミスをし、塾生の前でそれが露わになったとしても、生徒の間に起こる笑いは、「すげえウケてる」と笑ってそのまま彼女の魅力となる。この時点で彼女は稀有な単独者であって、半ば聖人の域に達している。しかし逆に言えば少し浮世離れしてもおり、その魅力は絶対的であり相対的評価を待たないがゆえに、遠くへ広まってゆく力をあまりまだ持たない。彼女は彼女としてこれで充足しているとも言えるのだが、しかし彼女に与えられた「ビリギャル」という位置が、社会においてことごとく彼女への絶対評価を妨げており、社会の方でも彼女を不良と認識し放っておきはしない。

   社会はまず大学進学という一つの具体へ繋がるものとして勉学の必要性を迫る。ここで事を複雑にするのは塾講師の存在で、彼によって目標が「けーおー」に設定される。このことがプロットにある種のスポ根的性質を与えているのだけれども、しかしここで見逃せないのは、この塾講師の存在によって、彼女にとっての勉学というものが、「やってもよいもの」の方へとスムーズに位置付けされることである。結果として彼女は、「やらなければならぬ」と言われたがために、それに対して「やるか不良か」という姿勢をとりかねない勉学というものに、及びそれを通じてその先に垣間見える社会という存在に対して、ついに反動的精神を持つことなく、それを「やってもよいもの」として受け入れている。つまりビリからけーおーへの変遷においても、彼女は未だ何物も負ってはいない。この変化は余りになだらかに起こるので、例えば友人とカラオケに行き歌を歌うと同時に宿題をこなすといった両立を可能にする。この様を日々目の当たりにすることになる友人たちにとってはこの変遷はあまり自然でないので、彼女を勉学に集中させるため一旦遊びの方を中断する話が温泉の湯の中で出るのは相対的に見て自然なのだけれども、彼女にとってそれは最初驚きでしかない。であるから「私のこと嫌いになった?」という反応が出るわけで、その後会話を続けるうちに不意に彼女を涙が襲うのは、彼女の内で絶対と相対がひとつ独特な形で融合を始めつつあることを予感させる。
   
   続けて彼女に迫り来るのは勉学を経た先にある大学受験そのものであり、即ちそれは与えられる相対的な評価と向き合うことである。有村架純センター試験という名の社会存在に直面する。会場での彼女の不安げな視線は、人称不明の後頭部へと注がれ、それはそのまま振り返る彼女でしかない。初めて視線はバランスを失う。

   彼女にとってのテストというものは、未だ殆ど相対評価としては存在していなかった。学校でも塾でもそこで良い点数を取ろうと悪い点数を取ろうと、塾講師や母親や友人たちは、彼女を絶対的なやり方で評価し続ける。しかしそうした対面とは全く性質の異なる、得体の知れない大きな存在との対峙は、彼女のバランスを不可能にする。そして数字はどこからか唐突に郵送され、彼女は挫折すると同時に、反省する。

   通塾のために母親の支払った月謝の金額のことを思い、そのために母親の重ねる労働の時間を前に、夜の雨の中声をあげ泣く。塾講師が担任と対峙する場面に出くわし、担任の振りかざす偏差値、確率といった数字が塾講師を襲う中、彼が一つの絶対を切り返してみせるその勢力を彼女は見る。相対的な成功へ固執する父親とその夢に挫折した息子を巡る殴り合いを前にし、おもむろに立ち上がり、父権の象徴とも言えるバスの窓ガラスを潔く叩き割る母親とともに、彼女は神の位置を定める。絶対と相対が混じり合い、一つの道徳となる。彼女のルックは変わる。そして彼女は全てを肯定し、透明になる。 

   スポ根ものとして、彼女は勝負に勝つわけであるが、そのことは重要でない。ビリからけーおーへの変遷は、プロットにおいて半ば約束されていた。ではギャルから透明への変遷はどうであろう?一体ここで彼女は、何を肯定するに至っているのだろうか。

   この映画は、魅了することで勝敗を異化する。勝負に負けた存在として有村架純に並置された野村周平の存在や、或いは勝負に負けたことでパンツ一丁となる担任、勝負に負けた父と息子の存在。しかし彼らは皆最後には透明で、なんだか大丈夫なのである。それは単独者たる有村架純が勝ち負けのルールを変えてしまったからであると言えるのだが、しかしそれは同時にこの映画が私を感化したためであるとも言える。『ビリギャル』という題とは裏腹に、彼女は一度もビリではなかったしギャルでもなかった。この映画も、一度として『ビリギャル』では無かった。それらは与えられた装いでしかない。そのルックはそうした一固有の具体を超えその先を思考していた。一歩間違えば勝ち負けを巡る好奇の目を集めかねない主題でありながら、そうして集まる視線を常に少しずつその向こうへと送り、むしろそちらへと招き続けた有村架純を、包むそのヴィジョンは魅力的である。

    『ちはやふる』『バグマン』といった、高校生が中心となる日本映画は『ビリギャル』の他にもあるけれども、それらは高校生の生の具体を描くということをどこか躊躇していた。実際前者からは競技かるたを巡る以外の彼ら彼女らの日常的時間がごっそりと抜け落ち、同級生との帰宅は描かれるにも関わらず、その先にあるべき広瀬すずの家は描かれず、家庭の様子は一度も画面に表れない。後者に至っては、物語上都合の良い親戚としての宮藤官九郎はあれだけ描かれるにも関わらず、他の家族や家庭の存在は全く現れない。小松菜奈は全て佐藤健と関わる以外の時間において全く画面に表れないがため真に生きていないも同然となり、表れる時には常に玄人の姿勢を維持して、そこには何の持続も見られない。

    個々の具体的事象を貫く一つの連続した持続を思考することなく、それぞれの勝負を切り離し、一々の勝敗によって何か意味を現そうなどと考えていると、人間に無理が生じる。有村架純のルックが変わり、彼女が役者としてどんどん透明になってゆくのは、「せねばならない」と「してもよい」の中間の肯定を作家が信じ、そこへと有村架純自身が役者として到達することによる。そうした人間と役者への信頼が、『バクマン』には決定的に欠けている。

    小松菜奈にひたすら愛している/愛していないを言わせ続けることしかし得ぬ『バクマン』。私はこれをみて小松菜奈が嫌いになってしまった。配られたプリントを回そうと振り返るとそこに澄ました顔の小松菜奈がいる。階段で見かける彼女も体育着姿の彼女も、街中の広告で見かける彼女とさして変わらずモデル的姿勢を完璧に維持し得ている。彼女は勝ち続けている。そのこと自体に問題があるというよりも、そのことに全てが懸かっているかのような姿勢が問題なのである。これは使われ方の問題であって彼女自身の問題ではないものの…  しかしそんな悲しみも、有村架純のことを思うと途端に呑気の気分と共に春の陽気が訪れ消えてなくなる。   ぼのぼのの単行本の帯に、有村架純の写真とコメントが載っていたことがあった。それはぼのぼの39巻でのことで、そこではスナドリネコさんは少しボケてしまうのだった。スナドリネコさんは少しボケて、クズリのオヤジもボケる。そしてぼのぼのは春を見に行く。