夢を売ること


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”TIN MEN”    (1987)  / 『ティンメン/事の起こりはキャデラック』



THE AMERICAN DREAM CHANGES
THE PEOPLE WHO SELL IT DON'T

映画の立つのはそうした中間である。

文明の有り方は精神と知性によって止まることなく絶えず発展しているので、ひとつの夢の形はそれが仮に実現したとしてそこで止まることはせず、であるからひとつのモードは決して永続し得ないのであるが、しかしその認識によって郷愁とニヒリズムとに陥るのではなく寧ろその事実によって、夢それ自身は軽やかさを得ることができる。それを可能にするのは他でもない役者であり、或いは動線としての演出である。

リチャード・ドレフュスらセールスマンは、顧客との間を媒介し、新たなモードをアメリカン・ドリームとして購入させることに成功していく。

彼らは顧客と対面するたび、商売的金銭的意味に於いて、彼らを騙していると言ってよい。しかしだからといってそこに加害者被害者といった構図は生まれない。というのもそこには真に夢があったからなのだが、ただしそれは彼らの売る商品によって齎されたものではなく、むしろドレフュスの発する言葉、それを発する彼の身振り、そしてそれらで満たされた時の流れの方から来ている。ドレフュスの対面に位置した人間は、そうした豊かさを目の当たりにするうちに、あたかも賭け事において中心に置かれた金銭がその切実さを失い羽を生やし飛んでゆくように、自らの金銭に突如として軽やかさが宿り始めたのを感じ、そしてそれを投じるのである。

であるから或いはドレフュスとダニー・デヴィートが、自動車をぶつけたぶつけられたで殴り合いの喧嘩を始め、そしてそれぞれに消化不良の鬱憤が残されるとしても、それは同様に一種のスポーツである。

そこに存在する諍いへの原動力は、絶望でもなければニヒリズムでもなく、専ら戯れへと向かう欲求である。車は度重なる嫌がらせを受け、一方はテールランプを割られ、一方は全てのウインドウを叩き割られ、常に互いの復讐の対象として傷を負ったまま彼らを運び続けるのだが、しかし傷を負えば負うほどに、自動車も金銭と同様何処までも軽くなり、それを壊す術も、殆どコウモリ傘による決闘と同じ次元で、互いの紳士協定を保証し続ける。常に急所は見誤られ、唯一重さを持って暗闇から現れる拳銃も、すぐさま生卵へとすり替えられる。

リチャード・ドレフュスは、このスポーツに於ける試合巧者である。しかし彼に負け続けるダニー・デヴィートとの対面が、決定的にのっぴきならぬものにはならず、むしろあのように朗らかに終わることが可能であるのは、そこにスポーツマンシップがあるからである。間に横たわるこの美しい精神こそが二人の闘いを戯れへと変え、或いはセールスマンと顧客とのやり取りを、金銭の損得とは異なる次元へと運んでゆくのだ。誰ひとり勝つ為に闘うのではない。対面の人間を信じられなくなれば終いである。

そうでなければ「お前の妻は俺のもの。」「いや絶対に別れてなどやらない」などという会話が、当の妻抜きで為されるというのも、その妻の命運がビリヤードに懸けられるなどということも、本来あってはならないのだから。
繰り返される彼らの対面は少しずつ緊張度を増し、遊びが遊びでなくなるギリギリのラインは、妻を巡るビリヤードの試合に於いていよいよ現実的ではなくなる。
交わされた賭けの約束は、肝心の試合中継を経ることなく直接翌朝の朝食へと接続される。その唐突な緩慢さによってもたらされる不安と奇妙な笑いは、しかしその試合結果を飄々と無視してみせるリチャード・ドレフュスの後ろ姿によって不可解な安定を獲得する。
朝食を食べ終え、「確かにビリヤードに負けたからには、僕は君を失わねばならない。しかしそんな約束を守るほど、僕は善い人間ではない」などと言い放ち颯爽と出掛けてゆくリチャード・ドレフュス。その後ろ姿が可能であるのは、ドレフュスがビリヤードではなく、その背後にある、より大きなスポーツのルールの存在に則って、ビリヤードでの敗北を敗北以外の何物かに変えてしまったからであって、それはジャン・ルノワール『イヴトーの王様』を締めくくるあの笑い、或いはジョコヴィッチに敗れたロジャー・フェデラーのテニスが成し遂げたことと同じ次元で、美しく、かつ説明不可能な出来事である。

結局の所ここには、絶対にスポーツマンであり続けるやり方、そのための身体、顔、声を持つ役者という存在と、そのことを理解し、次々と危険な遊びを考えつく演出という存在があり、そのどちらかひとつでも失われれば、途端に戯れは勝ち敗けを志向し、あらゆる物質は夢の軽やかさを失い、人間は、計り知れない互いの中心へと向かって闇雲に照準を定め合う戦争へと歩み始める。そうなればもう試合のルールにはただただ公平さばかりが求められるので、そこに戯れはあり得ず、そして創造も失われる。より強い勝者の生産と、より弱い敗者の救済が望まれ、それは結果として新たなものをひとつもこちらに返すことはなく、寧ろそうした映画は、誕生と引き換えにその都度確実に人を殺し奪い去っていくような、恐ろしいものとならざるを得ない。

「アメリカン・ドリームが変わる」ことが問題なのではない。しかしもし、それと共に夢を売る人間までもが変わってしまうのならば、それは映画にとっては、売る人間の存在と同時に映画そのものが不可能となることを意味する。

こうなった時、映画を巡って生み出される言説の多くは、最早映画を軽くはし得ない。言葉を探して個々の商品を「良い」と真摯に説明する作業は、顧客の金銭を軽くし、まだ見ぬ夢としての映画へとそれを賭けさせることには繋がらない。ドレフュスのように、自ら触媒となり、顧客と一対一のスポーツを演じることでその背後を夢見させること。それは売り込む商品の良し悪しの問題以前に、人間同士のやり取りの問題なのであって、そうして真剣に行われた試合のその先に待つのは大なり小なりの友情であり、決して損得勘定では有り得ない。セールスマン達は、映画が終わる頃には詐欺罪に問われ裁判でライセンスを剥奪されるわけだが、しかし彼らを訴えたのは顧客達ではない。果たして彼らはセールスマンを恨むだろうか?リチャード・ドレフュスとダニー・デヴィートは、自動車を破壊し合ったライバルであったにも関わらず、二人してどのように映画から退場していったであろうか?

映画を軽くする言説が可能であれば、映画そのものも可能である。映画の存在は、良し悪しの問題とは別に、スポーツ観戦の楽しみに近いものを保持する。これは何もそうした映画が全て良い映画であるなどと言うことではなくて、むしろそうした姿勢があって初めて、良い映画と悪い映画という考え方が可能となるのである。この区別は上下関係とはならず、あくまで個々の試合の記録として、それぞれが歴史に名を残してゆくことを意味する。その上で多様性は歓迎され、時にルール違反ギリギリのことを試みる存在が現れる。しかし彼もスポーツマンであるなら、それは独特の進化を遂げたひとつのプレイスタイルに他ならないであろうから、その出現によってむしろ競技の概念のほうに新たな拡がりが齎され、そうしてスタンダードは新たに移り変わってゆくのである。

この姿勢を維持し得る限り、失敗は失敗とはならない。ダニー・デヴィートを、或いはニコラス・ケイジを見よ。笑いと共に始め、そしてその高揚は気付かぬ間に幸福として有り、その連続の堆積によって自然に涙へ繋がるような、そういった時間の存在を、我々は知らぬわけではあるまい。