共に過ごしていた時間、そして今のこの、過ごしていない時間。私はどうすべきであっただろうか。

 

この程度の感情から、何者かに対する永久に終わりの来ない贖罪の日々が始まるというのは、何も珍しいことではない。

 

かと言ってこの状態のままならないのは、そもそも我々に成し得ることというのが、「共に居ること」の方に限られているということ。

 

別れが訪れた以上、あらゆる謝罪など意味をなさないのであり、更には「私、悲しくなんかないわ。」と目の前でその人が口にするのなら、それはもう、ある生の有り様は、その人が肯定しそれを続けている限り誰にも同情することなど許されないという認識でもって、贖罪とは、日増しに孤独な祈りの形をとってゆくのである。

 

自らに対してですらそれほどに、事は複雑なのであり、ましてや他者が別の他者と関わるあり方に対して是非を云々する、というのは、立脚可能な足場が余りに不確かで、何らか突発的な感情の噴出に吹きまくられない限り、行うことは躊躇われる。

 

しかしそうした突発的な感情の噴出というのも得てして他者を前に躊躇われるので、怒りとは、これも殆どが独り言である。であるから怒りと祈りとを垣間見るとき、我々はその他者のうちに時間を見出すのである。

 

「君は人を見ればその人間が他人の前で自分の苦しみを表に出してみせることが出来る者かどうかくらいはわかるはずだ。」

 

そうした時間の表出は、すぐさま一人の人間を不明な怪物に近付ける。不味くしか語り得ない人間というのがいる。彼が語るのは、正に今、彼が囚われている問題である。であるから彼の話法は精神の動線をなぞり、即ちその不明とは、精神の働きの不明さそのものであると言える。

 

上手く語るためには、話法のために、内容を理解し自らのものとせねばならない。どの程度を口にし、どの程度を閉じ込めておくかという判断は人によって異なるけれどもいずれにしろ、話法が敗北している告白というのは、結局のところ、描写には収まり得ない。

 

言葉がその限界を示し、その裏に潜む朧げな実態の方へ、聴き手の探求を向かわせざるを得ないので、結果的に聴き手は、語り手の直面したのとはまた異なる、再び生み出された新なる不幸と遭遇する。即ち聴き手はまず、語り手の精神の動きを探る必要に迫られるのであり、従って結果的に世界に不幸は倍増する。

 

口にしないでいるということは、その現存を自らのうちにおいて食い止め、他者のうちに悲しみを注ぎ込むことをしないという、人間の想像力に対する信頼から導かれたひとつの姿勢でもありえる。元来幸福も不幸も損得で測るべきものでは無い。

 

ところで、そうなってくると殆ど苦しみは、人を豊かに、美しくしてゆくばかりになり始める。するとむしろ私は進んで当事者から、怒りか、或いは祈りの声を聞きたいと、思う時がある。彼らからそれを注ぎ込まれるのも、彼らが自分に比べてそのように美しいのであってみれば最早苦痛とはならず、俄かにそれは愛に近づく。

 

しかしやはり当事者は、誰一人声を発さぬではないか。これは慎みからなのか、或いは諦めからなのか。私にはわからないが、しかしそれは痩せ我慢などでは決してなく、そうすることでせめてなりと、二人の人間を、二人が存在するその世界においてでき得る限り美しく、捉えておきたいと思うのである。

 

それは或いは、「共に居ること」そこで起こる愛をこそ信じ、それに反して、望むと望まざるとに関わらず孤独のうちに自己増殖を続けてゆく怒りと祈りとで、何かを裁くことなど絶対に認めはせぬという、果てしのない自己嫌悪の決意にも繋がっている。

 

 

 そして全てを経てなお、避けられぬのは死である。悲しむべきは何より死である。それ以外には何もない。