冬の日

 

冬至というのは一つの契機である。その日を境に少しずつ日が長くなってゆく、というのは科学だが、縁起物にもやはりそこには科学があって、御守りを冬至祭より配り始めるというのが穴八幡宮の恒例らしい。通りから見える景色も、登ってゆく石段の辺りに家族の賑わいを見せている。しかしその横で、私の入ろうという喫茶店は無理の気配を漂わせていた。

 

この店には愛着がある。近くに生まれ育った同郷の存在に抱くものに似た、であるからこのような、混雑に見舞われ誰の手によらず制御を失って回転しているところを見ると、不安ばかりが募っていく。このままでは今に壊れてしまう。しかし午後の空は変わらず明るさを保っている。

 

そうこうしているうちに、見えないところで陶器の割れる音が聞こえた。この店ではおよそ初めて聞く音である。左斜め後方で落ちた珈琲は、客の一人をかすめたようだ。謝罪の声が起こり、店内は騒然とした。女性客のコートが持ち去られ、「ああそれが。」と思っていると、後ろで歩調を荒げた女性が席を立ち、店員に詰め寄り話を始めた。

 

暫くして彼女は店を出て行き、その後どこかからもう一度、店に電話をかけてきたようである。不運に見舞われた女性店員は行き場のない辛さをたたえている。

 

「誰だって失敗をするんだから、仕方ないじゃないかね。」「悲しい顔になってしまった。」「もしあれが高級品だったとして、すぐ買い換えることのできるくらいでなきゃ貧しくっていけない。」

私と先から相席していた男子学生三人組みの批評は高級である。

 

私はといえば歩み去った彼女のことを考えていた。彼女は一人きりであった。一体こういう時に、全ての孤独は露呈するのである。彼女の怒りは、不運な女性店員へと向けられたものばかりでは決してない。それは重力のように、この店と、コートの先へと引き続く彼女の人生とに、静かな降り積もる時間の堆積を見上げる、噴出せざるを得ない悲しみである。

 

私の机には更に男子学生が二人相席することになったが、この二人が体育会系の体をしていたので、テーブルは動揺した。私たちは四角いテーブルを囲んで腰を浮かし、ゆっくりと回転した。彼らの言うにはここのバナナジュースは格別であるとのことだ。私の珈琲はバナナジュースより遅れてしまってまだ出てこない。しかしもう、ここまで来て何ひとつ動揺を感じることのない自らの心が、私には面白く思えてきている。

 

「珈琲遅くなり、大変失礼致しました。」

私が会計を済ませている横に、別の女性店員がやってきてそう告げた。会計をしているのは珈琲転落の彼女である。「いえ大変でしたね。」と私は立ち去ろうとしたが、お釣りを受け取り目を上げると思わぬ瞳にぶつかりよろけた。

 

具体を持たない、ただ自由を求めるような、熱量に満ちた目である。その眼はもう私を見てはいなかった。その煌きは、この瞬間に起こったものではなかった。一体どこからどういう光線が刺しやってきてこの瞳を奥から照らすのだろう。全ての同情をすら撥ね付けるほどに鈍く沸騰へと向かう目である。私は殆ど彼女のことを見上げていた。

 

彼女とももう幾度となくやり取りを交わしてきた筈であったが、これ程までに彼女が抜き差しならぬひとりの時間を露わにしたことはかつてなかったはずだ。私はとにかく何かを差し出そうと辺りを見回したが、店内の混雑を思い出すばかりで何ひとつそれはやってこない。私は店の階段を下りた。

 

それにしても私達は一体何をこうして準備しているのだろう。何か気乗りのしない革命へと向かっていくような静けさ。直進してみせようとも実は回転しているに過ぎない悲劇と、明日は今日より日が長くなるという喜劇。しかし私はあの目を思い出す。あの眼の光を。コスメティックの持つ輝きとは明らかに別物の何か。欲望によって他を動かし続ける力とはまた異なった、その美しさを宿した冬至の風景は、果たして私をどちらへ向けるだろうか。

 

それ以来というもの、彼女と顔を合わせるたび、妙な感覚に襲われる。もう私には、彼女の微笑みがわからない。