『十二夜』

 

「…しかしこの芝居は風俗喜劇ではない。詩的喜劇なのだ。上演において我々が為すべきことは、現実の劇画化ではなく、幻想的世界を創り出すことである。」ヒュー・ハント

 

「…この芝居は心地よさと陽気な気分に溢れている… 風刺は殆ど無いし悪意などは全く見当たらない…観客は人間の過ちを笑いこそすれ、軽蔑もしなければ、勿論、悪意を抱くこともない…」

 

「…シェイクスピアの喜劇的天才は蜜蜂に似ている。この蜜蜂は毒針を後に残すことよりは、雑草や毒草から甘い蜜を吸い取ることに巧みなのだ。シェイクスピアは登場人物の大きな欠点を誇張して、我々を大いに楽しませてくれる。のみならず、登場人物自身、怒るどころか喜んでその役を買って出ていると思われるくらいである。シェイクスピアは、彼らにみづからを至福の光の中に照らし出す機会を与へている程で、彼らを他人の機知や悪意といった曲解から起る軽蔑の晒しものにはしていない…」

 

「…彼が地口とか下賤の輩の一風変つたをかしさに惹かれても、それが美しいもの、即ち最も洗練された愛を描く喜びの邪魔になることはない。つまり道化フェスティの無理強いの洒落もヴィオラの優しい性格を損ふことはないのである。そして同じ一つ家がマルヴォーリョー、オリヴィア、マリーア、トービー、そしてアンドルーを十分受け容れることが出来るのだ。」ハズリット

 

十二夜福田恒存シェイクスピア全集 補巻 新潮社版 付録の批評集より抜粋

 

巻末に付された幾つかの批評を見る限りでも、「…現代のシェイクスピア劇上演にありがちな、登場人物に対する解釈過剰の傾向…」とでも呼ぶべき、全ての仮装を剥ぎ取らんとする勢力と、登場人物たちに仮装を纏わせる作者の力量に感嘆している勢力とに、批評の方向が二分しているのが興味深い。とはいえそうした両勢力を、まさしく双方向的に宿しているのが他でもない『十二夜』という作品なのであって、ここでは衣服は、剥がされるより先に着せられているのである。

 

なお抜粋した批評の断片はどちらかといえば後者の勢力にあると思われるものばかりであるが、これは専ら私の選択である。特に蜜蜂の比喩によって描写するシェイクスピアの喜劇的天才、などというのは、余剰を付け加えるばかりで奪うことをしない言葉の喜劇的用法であって、対象の一面に投げかけられた新鮮な光線の齎す錯覚を、これこそ「豊かさ」である、とすることに躊躇いを感じる程の余裕は、最早私には無い。