寝ても覚めても

 

 

    ある映画の帯びる、深刻の度合いを測るのには、ベッドを数えてみるというのがあるとおもう。

    ユリイカの、特集 濱口竜介で、おもむろに「フランスベッド…」と口にしたのは蓮實重彦であったけれど、「やはりこれは、あれでしょうか…」などと問いかけはじめる、その推測どおり、濱口竜介の応えるところでは、クレジットされているフランスベッドが提供したのは、ウィーンと起き上がるあの医療用ベッドであるらしい。つまりそれは朝子・亮平カップルの寝室にあるはずのベッドでもなければ、麦・朝子がつかの間、どこかで時を過ごしたかもしれない、そのベッドというわけでもない。フランスベッドの提供によるものが、結局誰のものであって誰のでないのか、ということをわざわざ確かめることに、これといって意味などないわけだけれども、とはいえ、ここで「やはり…」と、それが誰のどのベッドであったかというのが、大方予想がついてしまうというのは、それだけベッドが映画からその姿を消しているからに他ならない。

    つかのま、ごく普通にその所有を許されていたのは、一人暮らしをしていた頃の、亮平ばかりである。大阪から東京へ、仕事で赴任してきたばかりの彼の部屋には、中心にちゃんとそれが置かれて映っている。「しばらく仕事が落ち着くまでは、そう自炊もしてられへんかもしれん。」 新天地における慣れない生活に疲れた身体を、彼はひとまず投げだしていた。

   ベッドとは、人間のもつ、いまだ隠れた秘密のひとつである。横になってねむれる寝床を確保しているかぎりにおいて、人はある種の平衡を、保ちうるということらしい。たとえそれがその夜かぎりの、仮初めの夜であったとしても、ふと目を開いたとき、そこに世界が水平に拡がっているということ、そのことがたしかなら、そこにはある種の長閑さがうまれはじめる。となりで目を覚ましたばかりの人というのをみていても、みなふだんにくらべてのっそりとしてみえ、どこかに動物らしい呑気さを、取り戻しているようにおもえるものだ。

    だから、愛した人のとなりで目を覚ますこととか、或いは夜毎違うところで、のぞまない朝を迎えてしまうこととか、そういうこととは関係のない次元で、少なくともベッドが映っている限りにあっては、まだ大丈夫なのである。多かれ少なかれ、人はなにかを越えていく。

   濱口竜介は、ここにきてベッドを消した。或いは寝たきりになってはじめて、人はフランスベッドをあてがわれる。ある種の不気味さを纏うにあって、これほど聡明なことはあるまい。東北へと車で行ったその帰り、ようやく家へたどり着いたばかりの亮平が、その疲れた身体をどさりと投げだすのは、フローリングの上である。フローリングはあまりに固く、また低くあるので、それをおさめるカメラにも、妙な固さがあらわれる。そこへ朝子が静かに寄ってきて、どうするのかと思っていると、靴下を脱がせ、手でマッサージを始める。二人はお互いに、感謝の言葉を述べ合っている。「ありがたう。」 関西弁の響きのこもった、ささやかなその言葉の音がもつ印象に反して、画面のぎこちなさはほぐれることなく、いっこうに二人は眠れない。

    フィリップ・ガレルが、最近になって妙な輝きを増しているように思えるのは、ベッドを映す作家としての、大成と言える部分があるような気がする。ベッドの存在する世界にあっては、結局のところいかなる傾きも、平気になってしまう、とでもいうかのような、ある種の図々しさが、世界を豊かにすることを許しはじめている。『つかのまの愛人』。撮られる情事は悉く、立って行われる。立ったまま行われる情事の、あのどことなくスポーツの空気すら漂う妙な清々しさ。人は上下に重なるところを撮られることがなく、夜を乗り越えていく魂たちは、各々に平衡を取り戻すことを、もはや避けようとはしないだろう。

 

   朝子。彼女は座ったまま眠りから目覚める。「高速、降りたの?」 どこを走っているのかも分からないままに走り続ける、この限りにあって、甘美な持続は演出を試み、生と死とを取り違える、ある種の思想を、獲得することも可能になるのかもしれない。とはいえ、彼女は死なない。