『21世紀の女の子』

 

    いつでも不確定的にしか起こりえないできごとを、意図的に演出せんとする、そのとき作家の直面する、ある種の距離の意識、そのことに意識的たらんとする現代の意識は、いまやあらゆる作家の共有するところだ。

   「自分自身のセクシャリティ或いはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること。」

   そう定められたというテーマのうちにも、「自分自身の」「瞬間が」「映っている」という事態の、その曖昧さを通じて、わたしのゆらぎを映画のゆらぎへ、引き込むことが求められているようで、どのように折り合いをつけるか、隠れた命題を認めることで、ひとつの困難は導入されているように思える。

    そこに生じる接点は、歴史と現在とが交叉する、ひとつの事件にさえなりうるのかもしれない。ましてそれが『21世紀の女の子』とまで題されているとあってみれば、否応無しにそのように、名指されるものの側からすれば、乗るか反るかのいずれかにかかわらず、応答を希求してやまない存在として、映画は屹立することをみずから望んでいるとみえるわけで、あるいは山戸結希の言うように、「視られる側から視る側」へと、第一歩を踏み出しつつあるとされる、ものたちの側からしてみれば、文字通りの意味での歴史の始まり、スタンダードの設定として、なにものにも先立つようなかたちでこの映画はあるわけだから、わたしのゆらぎと映画のゆらぎとがスクリーン上において、不意の結実をみせるような事態など、当然ここでは有り得てはならないのだという逆説さえも、そこで名指されているものの側からしてみればきわめてあたりまえのことであるのだと、そう受けとめておくことが、あらかじめ求められているのかもしれない。

   「自分自身のセクシャリティ或いはジェンダーがゆらいだ瞬間 」、それってどういうものだろう、ということはハッキリとは言えないにしても、それが瞬間としてある種の重みを持つにいたるには、ひとえにそれを、実人生において、生きている、という、そのことによってもたらされる、名付けようのない持続の感覚がになう役割というのが、そのおおきな部分を成しているかもしれないということについては、ひとつ言ってもよいとおもう。ある種の経験は、その事態の切実さとともに、「とうとう私は、立ち会ってしまった。」という、経験それ自体への意識によって、個々人のうちに重みをもって存在していく。

    それは、たしかに重みをもって存在するにいたる。そのたしかさは、しかし、私から離れて、存在たりえないかもしれない、不確かなたしかさでもあったりする。私を巻きこんでいった、いくつもの出来事は、私にとってたしからしい物語として、それなりに重みをもつに至っているかもしれないわけだが、しかし元はと言えば、それはいつでも、いくつもの、不意の到来として、私にとっても、あったはずだ。いったん重みをもって位置付けられてしまったそのたしかな出来事に、不確かさをかえす試みというのは、「こんどはもう、起こらなくてもしかたがないかもしれない。」その言葉とともに、危険な白紙の領域にふたたび身を置いて、なおスクリーン上になにが揺れ動きうるのかを、みとどける覚悟をこそいう。「自分自身のセクシャリティ或いはジェンダーがゆらいだ瞬間 」が映っていることを、企画者によって設定された映像というのが、どれもたしかな物語のほうへと向かっていく、その足取りの確かさというのは、「こんどはもう、起こらなくてもしかたがないかもしれない。」どの映像も、そう身をもって告げてしまっているということのある種の確かさにも似て、それはいかにも悲劇的にうつる。

   そしてそこに自身の作品を、並列して観せてくる、山戸のやり口の大胆さには、やはり不安を感じずにはいられない。映画の幼年期として「女の子」というフィクションを仮構する、そのことに関して、ほかの作家にくらべ誰よりも意識的であるようにもみえる彼女自身は、ここにきて「少女」という、いっとう新しい言葉を提唱し、ひとり、テーマを無視していた。というより、隠すことでしか、それは露わにはならないでしょうから、とでも言いたげに、あるいは自身設定したであろうテーマにたいして、そこから身をかわす自由を、ひとり謳歌して(才能?)、真に「女の子」でありながら、かつすべての母たらんとする、途方もないその表明へ、応じるにあたっては、より以上の暴力を以って応える以外の可能な方法というのがいつか彼女をふいうちすることを、私は願ってやまない、そう言っておくことにする。